ゾンビ

S.T.の夢想日記[第4日]——笑いと恐怖

 よく言われることだが、笑いと恐怖は表裏一体である。例えばゾンビである。ゾンビはホラー映画界随一の人気者であり、そしてホラー映画とは観客に恐怖を搔き立てることをその目的にしているのだから、さしあたりゾンビとは怖いものであると言ってよいだろう。ところがその一方で、このモンスターはゾンビものを見慣れた観客から(場合によっては劇中の登場人物からも)「かわいい」とおちょくられてしまうことでも有名である。

 こうした点については、ベルクソンが行った笑いに関する分析を当てはめることができよう。それによると、笑いとは「注意深いしなやかさと生きた屈伸性とがあって欲しいそのところに、一種の機械的こわばりがある」[1]アンリ・ベルクソン著、林達夫訳『笑い』岩波書店、2013年、19頁。場合に生じるからである。例えば、歩いていた人が転んだときなど、滑らかな動作ができずにぎこちなくあたふたする様が、はたから見ると笑えて来る、というわけである。この点から、ゾンビが滑稽に見えてきてしまう理由が説明できるだろう。そもそもゾンビの何が恐ろしいのかと言えば、かつて人間として自由に振る舞っていた人物が、過ぎし日の習慣と本能に従ってぎこちなく動き回るというおぞましさにある。この点がゾンビにとって本質的だということは(少なくともその一つであるということは)、ゾンビの動きがシルエットで示されるだけで恐怖が掻き立てられるという事実により際立てられる。しかし他方で、そのぎこちなさがゾンビを滑稽なものにもする。即ち、危険だという認識も対処もできずに回転中のプロペラに突っ込んでいったり、足がもげてうまく歩けず赤ん坊のようにもがくといったゾンビの動きは見る者の笑いを誘うというわけである。

 こうした恐怖から笑いへの転化はゾンビに限らずすべてのホラーで生じる。ある怪談の語り手は幽霊の話をするとき、その幽霊が発生するに至る経緯などは語らないという。曰く、「ここでこういう事件があって、その無念から幽霊が発生しました」というようなことを明らかにしてしまうと、その幽霊が馬鹿みたいに思われるのだという。これもベルクソンの分析にあてはめて考えることができる。「或るおかしみの効果が或る原因から出て来るとき、その原因が自然的であると考えられれば考えられるだけ、その効果は我々にいよいよおかしみあるものに思われる」[2]同前、20~21頁。。人間的な柔軟さを欠いた幽霊が、鳩時計の如く現れる。恐怖を滑稽に転化させないため、怪談では幽霊の経歴や法則をあまり明かさないという手法が用いられる。ホラーがホラーであるためには、あえて不明瞭な部分を残しておく必要があるというわけである。

 以上のようにして恐怖は容易に笑いへと転化する。ただし、両者が同時に顕在化することはないのではないか。即ち、怖い時には滑稽には思われないし、滑稽に思われているときは怖くはない。この点を鑑みるならば、ぎこちなさは、一方では恐怖の理由となり、他方では笑いや滑稽の理由となるが、しかし同時に両方の理由となることはない。そうであれば、笑いと恐怖にはぎこちなさ以外の要件があり、そうした用件を満たしているか否かによって、ぎこちなさは笑いにも恐怖にもなる、ということになる。では、その要件とは何か。

 この点に関してベルクソンは次のように指摘している。即ち、「滑稽は、極めて平静な、極めて取り乱さない精神の表面に落ちてくるという条件においてでなければ、その揺り動かす効果を生み出しえないもののようである。われ関せずがその本来の環境である」[3]同前、14頁。。つまり、実害が出ないと分かっている限りでぎこちなさは笑いになるのであり、そうでなければ笑っている場合ではないのである。既に述べたように、恐怖は容易に笑いへと転化する。そしてその逆、笑いから恐怖への転化も容易に発生する。例えば、ゾンビをおもちゃにしていた登場人物も、いざゾンビに齧られそうになると途端に怯え始める。滑稽さは状況が変われば直ちに恐怖に塗りつぶされる。またこうした効果を狙って、怪談の語り手は「この話を聞いた人には、三日以内に同じ怪異を経験することになる」などとして、作り話として聞いていた怪談の内容を我が身に起こる現実的な可能性へと引き寄せる。

 以上のことを簡潔に述べるならば、次のようになる。即ち、笑いの要件は当事者として切迫しておらずぎこちないほど明瞭であることであり、恐怖の要件は当事者として切迫しており不明瞭であることである。してみると恐怖を感じるということは、非機械的な動きを当事者として感じているということである。

 あるいはこのことから、人間がホラーを観賞して恐怖するということの意義を見出すことができるかもしれない。ベルクソンによれば、社会とはその成員同士による相互適用の絶えざる努力を求めるものであり、機械的に固定している暇はないという。そして笑いとはそのために、社会生活において出会う具体的損害に達していない機械的こわばりをしなやかにするものだという[4]同前、27頁。。ホラーはその逆の役割を持つのかもしれない。即ち、具体的損害に達している社会的流動性を固着させるのである。はしっこい詐欺師に対して、嘘をつくと地獄に落ちるぞ、と脅してみるのである。


関連書籍

アンリ・ベルクソン[著]、林達夫[訳]、岩波書店、2013年

1アンリ・ベルクソン著、林達夫訳『笑い』岩波書店、2013年、19頁。
2同前、20~21頁。
3同前、14頁。
4同前、27頁。


執筆者:S.T.

アイキャッチ画像:https://pixabay.com/images/id-2258609/