運命を現象学する(3)


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 これまでにあきらかになった運命的経験の成立条件は、第一に「たまたまであること」、第二に「ポジティブな価値をもつこと」である。わたしたちが運命を感じるのは、大前提として――これははっきりと指摘してこなかったが――「もの」ではなく、「こと」についてである。テーマパークで片思いの相手に出会った「こと」、それも、その相手と約束したうえで会うのではなく、たまたま出会ったことに運命を感じる。出会う相手は、近所のおじさんのようなどうでもよいひとではなく、片思いの相手や仲良しの友人などでなければならない。自分にとって、そうしたひとたちと出会うことはポジティブな価値をもつからこそ、それは運命的な経験になるわけである。もちろん、自分にピッタリの服のような「もの」であれ、たまたまそれをみつけるという「こと」に運命を感じる、ということもありうる。また、前回の考察であきらかになったように、「自分にはどうしようもない嫌なことがあったこと」のように、ネガティブな価値をもつ出来事に運命を感じるということもありうるが、この場合も、そうしたネガティブな出来事が起こったことをポジティブに解釈しようとしているのである。「こうなる運命だったんだ!」と。

 しかしながら、ネガティブな出来事を運命としてポジティブに解釈することは、その出来事がたんなる偶然によって起こったのではなく、回避できないものという意味での運命にしたがって起こったと解釈することを意味していた。これは、運命の第一の条件「たまたまであること」に矛盾するようにおもわれる。この場合、運命は、たんなる偶然とはちがう、必然のようなものを意味することになるからである。これら偶然性と必然性という正反対の契機は、どのように運命の経験に関与しているのだろうか。

 ここで、前回紹介した「家族内の女性全員(祖母、母、姉、自分、兄の結婚相手)が(月はちがうが)15日生まれであることに運命を感じる」という事例に注目してみよう。この場合、家族同士の仲が良くても悪くても、あるいはどちらでなくとも、つまり、この偶然の一致という出来事が、ポジティブでもネガティブでも、あるいはニュートラルであっても、運命を感じてしまうことはありうるだろう。この事例において、偶然性と必然性はどのように関与しているのだろうか。

 まずは、偶然性について。彼女たちがこの出来事に運命を感じるのは、彼女たち全員がたまたま15日生まれであるからである。たとえば、こんなことはありえないだろうが、彼女たち自身が、誕生する以前に、「わたしたちは15日に生まれよう」と約束していたとすれば、これは運命的な経験ではなくなってしまう。この出来事は、彼女たちがあらかじめ意図していなかったからこそ運命的な経験になるのであって、あらかじめ意図していたとすれば、運命的な経験にならないのである。

 つぎに、必然性についてはどうだろうか。彼女たち全員が15日生まれになる確率は非常に低く、偶然性の度合いが高い。それにもかかわらず、この偶然の一致が実現したのはなぜだろうか。そのような不思議な出来事に直面すると、わたしたちはこんなふうにおもってしまうのではないだろうか。「これはだれかがあらかじめ意図していたことではないか。だれかがあらかじめ意図していたからこそ、こんな偶然の一致が実現したはずであり、だれかがあらかじめ意図していたのであるから、これは偶然ではなく必然であるのだ」と。

 この場合、偶然性と必然性は矛盾していない。「運命を感じているひと自身」があらかじめ意図していたのではないという意味では偶然であり、それと同時に、「だれか」があらかじめ意図していたかのようにおもわれてしまうという意味では必然であるわけである。おそらく、その「だれか」があいまいなままであっても十分に運命的経験は成立するだろうが、神のようなものが想定されるのがふつうだろう。

 ここでもう一度、もっともよくある事例に立ち戻ってみよう。テーマパークでたまたま片思いの相手に出会う、という事例である。この場合、偶然性と必然性はどのように関与しているのか。まず、このことに運命を感じるひと自身はこの遭遇をあらかじめ意図していなかった。つまり、たまたま、偶然に、この出来事が起こった。しかし、たまたま、偶然に起こったにしては都合がよすぎる。「こんなに都合がよい出来事が起こったのは、だれかがあらかじめ意図していたからではないだろうか。つまり、これは偶然ではなく、必然だったのではないだろうか。」このような驚きによって、偶然の出来事が、必然だと感じられたり、解釈されたりするわけである。

 これまでの考察の成果をまとめておこう。運命的経験の成立条件はこのようになる。

・運命を感じるひと自身があらかじめ意図していなかった出来事が起こる。
・ポジティブな出来事や奇跡的な出来事が起きた場合:その出来事が起きることを、だれかがあらかじめ意図していたかのように感じてしまう。
・ネガティブな出来事が起きた場合:その出来事が起きることを、だれかがあらかじめ意図していたかのように解釈しようとする。

おそらく、ポジティブな出来事や奇跡的な出来事の場合、わたしたちはそれを自然に、必然だと感じてしまうだろう。これを受動的な運命感と呼ぶことにしよう。それとはちがって、ネガティブな出来事の場合、それを意識的に、必然だと解釈しようとする。そうすることによって、そのネガティブさを中和し、受け入れようとするわけである。これは能動的な運命化と呼べるかもしれない。

 このように運命的経験の成立条件を考えることができるだろうが、だからといって、あらゆるひとが運命を感じるわけではないし、さらには、あらゆることに運命を感じるひとさえいる。これらのひとたちについてはどのように考えればよいだろうか。

 どんな出来事にも運命を感じないという事例としてはこのようなものがあった。

・すべて偶然で、運命だとはおもえない。それは、あらゆることへの熱が冷めてしまったからではないかとおもった。

この事例において、「たまたまであること」という条件は備わっている。しかしながら、偶然の出来事を必然だと感じる、あるいは、解釈するという条件が欠けてしまっている。なぜか。ここでも、学生自身の言葉がヒントになるだろう。この学生のなかでは「あらゆることへの熱が冷めてしまった」と。これを、一切を無価値とするニヒリズムのようなものとしてみなしてよいとすれば、この学生にとって、一切はポジティブでもネガティブでもない。もしかすると、一切がネガティブなものにおもわれるからこそ、このような見方をするのかもしれないが、ネガティブなものをポジティブに解釈しようとする意志もない。奇跡的な出来事が起きたとしても、それはたんなる偶然であって、なんの「意味」もない。そのため、偶然の出来事を必然だと感じたり、解釈しようとしたりすることそれ自体の条件が欠けてしまっているわけである。おそらく、わたしたちの多くが、歳を重ねるにつれて、この学生のいうところの熱を失っていき、運命的経験と無縁になっていくのだろう。「すべては偶然だ」という見方は、運命的経験を成立させないのである。

 すべての出来事に運命を感じるという事例はどうだろうか。このような証言があった。

・良いことも悪いことも過去のすべての出来事をとおして自分ができているから、誕生から今にいたるまでの出来事すべてが運命だとおもう。

この事例には、ある出来事を必然だと感じたり、解釈したりするという条件は備わっているものの、今度は、偶然性という条件が欠けているようにおもわれる。この学生の見方は「すべては必然だ」という見方に近いようにみえるが、けっして同じではない。この学生が「すべては運命だ」とおもうのは、おそらく、現在の自分やそれをつくりだしてきたすべての出来事をポジティブに評価できるからこそ、あるいは、ポジティブに解釈しようとしているからこそ、だからではないだろうか。つまり、決定論的な「すべては必然だ」という見方とはちがって、「べつの可能性もあったかもしれない」という見方をしたうえで「これでよい」とおもう気持ちが、この運命的経験を成立させているわけである。

 最後に、決定論的な見方について言及しておこう。決定論とは、すべては因果律にしたがってあらかじめ決定されているとする見方である。決定論にとっては、すべてが必然である。「すべてが必然だ」という見方は「すべてが運命だ」という見方と、先に述べたように、似てはいるが同じものではない。まず、決定論には偶然性というものが関与する余地がない。たしかに必然性という契機は関与しているものの、これは、自分が意図していなかった出来事を、だれかが意図していたことだと感じたり、解釈したりするときの必然性とはまるでちがう。それは、いわば価値とは無縁の必然性である。偶然性が欠け、必然性が別種のものになっているわけである。


 以上が運命の、運命的経験の成立条件の現象学的考察である。結局のところ、運命は存在するのだろうか。そして、運命を決定する神のようなものは存在するのだろうか。それは、おそらくわからないことである。たしかに、わたしたちは、生きていくなかで、神のようなものを想定せずにはいられないような偶然の、奇跡的な出来事に出会うことがある。しかしながら、片思いの相手との遭遇と近所のおじさんとの遭遇との比較からあきらかになったように、それを運命だと感じたり解釈したりするのは自分自身なのである。

 わたしたちは、じつのところ、自分自身や自分自身のなかで起きていることを知らない。いや、知っているはずだけれども、言葉にするのはとてもむずかしい。だから、たとえば、他人事であるかのように、「脳が運命を感じる」だとか「無意識的に運命の存在を信じてしまう」だとか言って済ましてしまいたくなる。しかし、それは自分自身から逃げることであると言えないだろうか。現象学はそこで、自分自身について真正面から考えなおすすべを与えてくれるかもしれない。


関連書籍

ダン・ザハヴィ[著]、中村拓也[訳]、晃洋書房、2015年

執筆者:峯尾幸之介(大学非常勤講師)
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導終了退学。哲学・美学研究。専門は現象学・現象学的美学。
https://researchmap.jp/konosukemineo/

アイキャッチ画像:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zodiac_German_Woodcut.jp


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