運命を現象学する(1)

 運命をテーマにするとなると、こんなふうに書くのを期待されるかもしれない。髭を生やした偉そうな哲学者が「すべては運命によって決定されているから、それを受け入れなさい」とわたしたちを諭している。あるいは、「運命は自分で切り開くものだ」と励ましている。等々。たしかに、そんなふうに言う哲学者もいるかもしれないが、ここでは、残念なことに、そういった説教くさいことを書くつもりはない。それではなにをするのかと言うと、運命を現象学してみようと思う。

 みなさんは運命が存在すると信じるだろうか、信じないだろうか。おそらく多くのひとが、一度くらい、たとえばだれかとの出会いに運命を感じたことがあるのではないだろうか。そして、それが運命であると感じつづけたまま、幸運にも、一生を終えるひともいれば、運命だと思っていたことが、結局はなんでもなかったとわかり、失望したことのあるひともいるだろう。もちろん、運命なんてものを感じたことはないし、信じていないというひともいるだろう。運命は存在するのかしないのか、あのひととの出会いは運命なのかそうでないのか――そうやって言い争うことは、きっと飲み会や恋バナをおおいに盛り上げてくれることだろう。

 ここでは、これまた残念なことに、運命が存在するのかしないのか、判決をくだすわけではない。運命が存在すると信じるひと、信じないひと、そしてどっちつかずのひとがいる。どうしてあるひとは運命を信じ、またあるひとは信じないのか。運命を信じるのはロマンティストで、信じないのはリアリストだ、と言って済ませることができるほど簡単ではない。おそらく運命を信じるひとでさえ、ほとんどの場合、なにか決定的な証拠――たとえば神さまがやってきて「あなたの運命はかくかくしかじかですよ」と教えてくれる――を持ち出して、その存在を証明することはできないだろう。運命はとても不確かなものだ。それにもかかわらず、なぜわたしたちは、偉い哲学者が「すべては運命だ」と言ってくれるのを期待してしまうほどに、運命の存在を強く求めてしまうのだろうか。なぜそんなにも運命というものに強く惹かれてしまうのだろうか。

 そこで現象学の出番、というわけである。現象学(厳密にはE・フッサールの超越論的現象学)においては、たとえば、目の前にパソコンが存在する、というようなごく当たり前の確信のスイッチを切って、宙ぶらりんにする。これはフッサールが「エポケー」と呼ぶ方法である。そして、宙ぶらりんのまま、わたしたちの経験のなかでどのようにしてその確信が生まれるのかを分析する。わたしたちはごく当たり前に、目の前にパソコンが存在するからこそ、わたしたちは五感をつうじてそれを見たり、それに触れたりすることができると思っている。しかし、そもそも「目の前にパソコンが存在するからこそ」という前提が不確かだ。それを疑うこともできる。だから、わたしたちの経験のなかだけで、つまりはそうした前提をすることなしに、どのようにして「目の前にパソコンが存在する」という確信が生まれるのかを分析するのである。こうした手続きのことを「現象学的還元」と言う[1]フッサールの現象学については、ダン・ザハヴィ(中村拓也訳)『初学者のための現象学』晃洋書房、2015年などを参照。

 これを運命をテーマにしてやってみる。目の前のパソコン以上に、運命の存在は不確かである。パソコンとはちがって、運命そのものが五感をつうじて経験されるということはないだろう。当然、その存在を信じているひと、信じていないひとの両方がいる。運命が存在するという確信は、どのようなひとのうちで、どのような仕方で生じるのか。そして、どのようなひとのうちでは生じないのか。

 「経験のなかだけで」とは言っても、さまざまな事例を出せるほど、筆者の人生はドラマチックではない。そこで、ある大学の講義で募り、寄せてもらった学生たちの体験談を参考に分析していく(ただし、プライバシー保護のために内容を若干変更することもある)。

 さて、体験談のなかでもっとも多い事例は、友人や恋人、家族といった人物との出会いに運命を感じたというものであった。仲良しの友人との出会いに運命を感じる、外出先で片想いの相手にばったり遭遇して運命を感じた、というのはよく耳にする話である。趣味や仕事、学校や職場に運命を感じたという体験談もあったが、さしあたりは、人物との出会いの事例をもとに考えていこう。

 あの有名なテーパマークで片想いの相手にばったり遭遇する――たとえそんなことがあっても運命だなんて思わない冷静なリアリストも、少しのあいだだけ付き合ってみてほしい。ある学生がなんでもない日曜日に、友人とあのテーパマークに遊びに行く。そして、人気のアトラクションに乗るために行列に並ぶ。ふと前を見ると、なんとそこには片想いしているクラスメイトがいる。わたしとそのクラスメイトは、やっぱり赤い糸で結ばれていて、いつか恋人同士になる運命なんだ。――これを運命だと感じる条件はなんだろうか。

 それを考えるためのヒントになる言葉が体験談のなかにある。人物との出会いにかぎらず、多くの体験談において、「たまたま」という表現が用いられていた。テーマパークで仲良しの友人にたまたま遭遇する。たまたま立ち寄ったお店で、自分にピッタリの服に出会う。それでは逆に、「たまたま」ではない場合を想定してみよう。さきほどと同じ学生が、たとえば平日に大学の教室で片想いの相手といつもどおり顔を合わせる場合、それを運命と感じることはないだろう。その相手がそのとき、そこにいるのは当たり前なのであって、たまたまではない。大学の教室ではなく、テーマパークであったとしても、(ふつう大学の行事にはないが)修学旅行で同じ日に、別々のグループで行き、パーク内で遭遇したという場合、あるいは、片想いの相手がいついつに行くという噂を耳にして、それに合わせて行って遭遇したという場合(ストーカー?)、それを運命だと感じることはないだろうし、少なくとも、運命的な感じは弱まってしまうだろう。そこには「たまたまであること」がないのである。さらにその逆に、平日で授業があるにもかかわらず、たまたま二人ともサボってしまい、しかも、二人ともあのテーマパークに行き、そこでばったり遭遇する。その場合、おそらく、日曜日にそこで遭遇するよりも、いっそう強く運命を感じることだろう。

 遭遇する場所に注目してみると、テーマパークではなく、海外旅行先でたまたま遭遇したとなると、運命的な感じは非常に強いだろうし、逆に、大学の近所でたまたま遭遇したという場合、今度は弱まってしまう。どうやら「たまたまであること」が、運命の経験が成立するための条件であるようだ。この「たまたまであること」を「偶然性」と呼びたくなってしまうが、ここではひとまず「たまたまであること」のままにしておきたい。

 「たまたまであること」――これだけでは、もちろん、運命の経験は成立しないだろう。筆者が講義中、学生にむかって「わたし(筆者)とたまたま出会って運命を感じますか?」と尋ねると、当然みな、苦笑するわけだ。わたしたちは「だれ」との出会いに運命を感じるのだろうか? 仲良しの友人や片想い相手にたまたま遭遇することを運命だと感じても、近所のどうでもよいおじさんや、つまらない講義をする教員と遭遇したとしても、運命を感じはしないだろう。仲良しの友人も片想いの相手も、ライクであれラブであれ、「好きなひと」である。だから、もし筆者のことを好きなひとがいるとすれば、そのひとにとっては筆者との遭遇が運命の経験になりうるし、そうでないひとにとってはなりえない、と言えるかもしれない。

 しかしながら、体験談をよく読んでみると、とても興味ぶかいことに、「嫌いなひと」との遭遇を運命だと思ったという事例、また、「いつもどおり当たり前のこと」に運命を感じるという事例があった。こうした事例を、どのように考えればよいのだろうか。(つづく)


関連書籍

ダン・ザハヴィ[著]、中村拓也[訳]、晃洋書房、2015年

1フッサールの現象学については、ダン・ザハヴィ(中村拓也訳)『初学者のための現象学』晃洋書房、2015年などを参照。


執筆者:峯尾幸之介(大学非常勤講師)
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導終了退学。哲学・美学研究。専門は現象学・現象学的美学。https://researchmap.jp/konosukemineo/

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