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「私たちはみな自分なりの愛し方、憎み方を持っており、この愛、この憎しみはその人の人格全体を反映している」——アンリ・ベルクソン

 フランスを代表する哲学者アンリ・ベルクソン(1859-1941)の最初の主著であり、国家博士号取得論文でもある『意識に直接与えられるものについての試論』(1889)からの一節[1]Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, Quadrige, PUF, 2011(1889), p.123. 平井啓之訳『時間と自由』白水社uブックス、2009年、168頁。合田正人・平井靖史訳『意識に直接与えられたものについての試論』ちくま学芸文庫、2002年、184頁。竹内信夫訳『意識に直接与えられているものについての試論』新訳ベルクソン全集1、白水社、2010年、159頁。。同書は、以前は『時間と自由』というタイトルで訳されることが通例だったが、近年はフランス語の原タイトルに即したものもいくつか出ている。ベルクソンの本はどの訳で読むかによって受ける印象が大きく異なる。読んでみてしっくりこなかったり、よく分からなかったりしたら、別の訳書を参照してみるとまったく別物に感じられたりもする。本書にもすでにいくつも邦訳があり、どれも一長一短という感じなので、余裕があればいくつか読みくらべてみるのがよいと思う。

 私たちは時間の中を生きる。あらためて言うまでもない当たり前のことだが、これがベルクソンの根本的な出発点だった。私たちの感情や意識状態、思っていることや感じていること、考えていることも、外界の事物も子細にみればまったく同じままであることはなく、絶えず変化し続けている。昨日の私と今日の私は、昨日から今日までのあいだに流れた時間の分だけ変化しているはずであり、一見まったく同じに見える物体も分子や原子のレベルでは外からの影響を受けて変化している。

 しかし私たちは通常そうした変化には着目することなく生活している。もちろん、変化が目に見えるほど大きい場合が少ないということもあるだろうが、あまり細かい変化に気をとられていては、日常生活が円滑にまわらなくなってしまう。私たちは日常生活を送る上で必要のないような変化や差異に対しては目を閉ざして生きているのである。いやむしろ、あまりに細かい変化や差異に対して目を閉ざすことではじめて日常生活というのものは可能になる。

 これは記憶に関しても同じである。ベルクソンによれば、時間の中で生きるということは過去とともに生きるということである。私たちはそれを覚えていようといまいと、これまでの過去のすべてを背負って生きている。過去はそれ自体で存在し、決してなくなることはない。私たちの人生とは、途切れることのないひとつの物語のようなものなのである[2]「意識が目覚めてからの私たちの生の全体は、無際限に持続している話のようなものではないだろうか」アンリ・ベルクソン『思考と動き』原章二訳、平凡社ライブラリー、2013年、102頁。

 しかしここでもやはり、私たちはこれまでの人生をつねに思い返しながら生きているわけではない。料理や読書をしているとき、あるいは仕事をしているときに、まったく関係ない記憶がどんどんあふれてきたらとてもそれどころではない。私たちは通常、その時の行動に関係ない記憶というものを意識から遠ざけているのである。

 一方、九死に一生を得るような体験をした場合、それまでの人生が走馬灯のように見えたという話はよく聞かれる。ベルクソンによればこうしたことが起こるのは、死に直面することによって生活上の行動に専念する必要がなくなり、もはやせき止める必要がなくなった記憶が一挙に押し寄せてくるからである。「過去のパノラマ的光景は突然に起こった生活への無関心によるものであり、自分がもうすぐ死ぬのだという突発的な確信から生まれるもの」[3]アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』原章二訳、平凡社ライブラリー、2012年、117頁。なのである。

 さて、私たちは、意識していようといまいと、これまでの自分の全人生を背負って生きている[4]「思うに、私たちの過去はどんなに細やかなところまでも保存されていて、私たちはなにも忘れることがないのです。意識の最初の目覚め以来、知覚し、思考し、意欲したすべてのことが切れることなく存続しているのです」同前、142頁。。今回紹介する一節が述べているのはまさにそのことである。私たち一人一人がこれまで生きてきた時間のすべてが、私たち一人一人の性格をかたちづくる。愛し方、憎み方というのは、この性格を端的に表現するものとしてあげられているのだろう。

 もちろん生まれつきの性格や体質のようなものも各人の人格に対して影響を及ぼしているだろう。しかしそれと同様に、どんな風に生きてきたか、時間というものを何にどう使ってきたのかということもまた、私たちの人格を作り上げることに貢献しているのである。休みの日に何をするのか、家でのんびりと過ごすのか、友人と街に出かけるのか。どんな人たちと付き合い、どんな文化に触れてきたのか。こうしたことひとつひとつが私たちの人格を作り上げる。

 したがって、私たちの性格や人格とは、私たちの行動の積み重ねでもある。この「自己による自己の創造」。これもまたベルクソンが信じていたことだった。「人間の本質は、物質的にも精神的にも創造すること、事物を制作すると共に自己をも制作することであると私は信じている」[5]ベルクソン『思考と動き』前掲書、116頁。。日々をどう過ごすのか、時間をどう使うのか、この問いは自分自身をどんな人間にするのかという問いと等価なのである。


関連書籍

アンリ・ベルクソン著、 平井啓之訳、白水社、2009年
アンリ・ベルクソン著、原章二訳、平凡社ライブラリー
アンリ・ベルクソン著、原章二訳、平凡社ライブラリー
Henri Bergson著、PUF、 2013年 ※AmazonでKindle版を表示させると異なる版がでてしまうのでご注意下さい。

1Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, Quadrige, PUF, 2011(1889), p.123. 平井啓之訳『時間と自由』白水社uブックス、2009年、168頁。合田正人・平井靖史訳『意識に直接与えられたものについての試論』ちくま学芸文庫、2002年、184頁。竹内信夫訳『意識に直接与えられているものについての試論』新訳ベルクソン全集1、白水社、2010年、159頁。
2「意識が目覚めてからの私たちの生の全体は、無際限に持続している話のようなものではないだろうか」アンリ・ベルクソン『思考と動き』原章二訳、平凡社ライブラリー、2013年、102頁。
3アンリ・ベルクソン『精神のエネルギー』原章二訳、平凡社ライブラリー、2012年、117頁。
4「思うに、私たちの過去はどんなに細やかなところまでも保存されていて、私たちはなにも忘れることがないのです。意識の最初の目覚め以来、知覚し、思考し、意欲したすべてのことが切れることなく存続しているのです」同前、142頁。
5ベルクソン『思考と動き』前掲書、116頁。


執筆者:渡辺洋平

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