海から伸びる手

S.T.の夢想日記[第1日]——粘土と単位

 発明王トーマス・エジソンの逸話に次のようなものがある。曰く、エジソン少年が小学校で算数を習っていると、「1たす1は2じゃない。一つの粘土と一つの粘土をくっつけたら一つの粘土になるから」と言ったという。

 この証明に対する反論はいくつかあり得るが[1]単位に関する反論の他には「集合」に関する反論がある。即ち、+を「くっつける」として解釈することに誤りがあり、一つと一つをくっつけずにそのままお皿に乗せれば二つの粘土となる。今回は、gならば+をどちらで解釈しても数学的に正しくなるのに、個ではそうならないという点に着目し、単位の違いに焦点をあてる。、最も分かり易いのは単位に関するものだろう。即ち、たしかに粘土を「一つ」や「一個」という単位で捉えるならば「1+1=2」にならない。しかし「1g」や「1㎥」として捉えたならば、問題なく数学的法則に沿った結果が出るはずだ。単位には、数学的計算に合致する単位とそうでない単位とがあり、「1g」は数学的計算と合致する単位で、「一個」は数学的計算とは別の原理に沿った単位である。そのためエジソン少年は粘土を「一個」ではなく例えば「100g」と捉えるべきであり、そうすれば100gと100gをくっつけた粘土は200gであるということになり、「1+1=2」は正しいという正解を導き出すことができる、というわけである。

 このように考えると、数学的観点から言えば「個」は曖昧で不完全な単位であるということになる。私たち人間はそうした曖昧なものの見方を頼りにしているから、物事を歪めて見てしまうのかもしれない。そうであれば、人間は個という単位を捨て去りgなどの単位に認識を改めたならば、正しく(数学的に正確な)世界を知ることができるようになるだろうか。いや、そもそもそのようなことは可能なのだろうか。

 粘土を手に持つとき、人間はそれを一個として認識することができる。しかし、それが何gかは分からない。この点でgよりも個という単位の方が、人間にとってより身近で、より身体感覚に忠実であると言える。

 ではもし、手で握ったものが100gであると分かる人間がいた場合はどうだろうか。100gは分かっても、100.1gは分からないかもしれないし、100.01gは分からないかもしれない。100.01g+100.01gは200gではない。それは200・02gでなければ数学的には正しくない。そして、たとえどこまでも精密な計測機器を用いて測ろうとも、人間は微細な誤差を見逃さざるを得ない。「100gの粘土」と人々が言うものは、きっと100gではない。それ故、「100gの粘土」と「100gの粘土」をくっつけても200gの粘土にはなっていない。それでも皆このことを承知の上で、100gの粘土と100gの粘土をくっつけて200gの粘土だと言っている。数学的に正しくなかろうと約200gで問題ない。むしろ問題ない範囲では200gこそが正しい。100.1gという数値は人間の都合で100gになる。

 ただし断っておくが、このような極論をもって1+1=2は間違っていて役に立たないなどという主張をしたいのではない。そうではなく、gであろうと個であろうと、単位を用いた時点で人間は数学的計算に従うつもりなど毛頭ないし、そうでなければ人間には何も理解できないということを述べたいのである。例えば1mを「光が~秒間に進む距離である」と定義しても、人間は「それで1mってどのくらい?」「1秒間ってどのくらいなの?」ということを知りたがる(微妙に伸縮するメートル原器や時々電池の切れる時計の出番である)。こうしたことは、体感を伴わないと人間は何も理解することができないということの証左ではないだろうか。

 以上のことから結論づけるとしたら、人間は歪みのない正しい世界を生きるために個という単位を捨てgなどの単位に認識を改めるというのは無駄な努力であり、そうした認識の根本的改変は不可能である、ということのように思われる。というのも、gなども単位である以上巧妙に数学的規則を逸脱しているからであり、既に人間が体感する際の尺度を前提にしていると思われるからである。

 また従って、gという単位で見れば粘土の話は数学的計算に沿うことになるというエジソン少年への批判にも問題があるように思われてくる。繰り返し述べているように、gも含め、単位という枠組みで見て取られたあらゆる対象は純粋な数学的対象とは異なり、微細な計算間違いを許容したものになっている。そのため約100g+約100g=約200gという計算が可能だと述べたところで、それは「1+1=2」の正しさを保証するものではないのではないか。しかもそれに加え、そもそもこのエジソン少年への批判は、数学の正しさをgで証明するものではなく、むしろ「1+1=2」が正しいという前提の下、この数学的計算に適合する正しい見方はgである、と主張しているに過ぎない。しかしここでは当の「1+1=2」の正当性が疑われている以上、これは論点先取ではないのだろうか。

 さて他方で、あらゆる見方や正当性の基礎となっている人間の体感とはどのようなものなのか。「一つの粘土と一つの粘土をくっつけたら一つの粘土になる」ように、この次元ではもはや数学的計算は通用しない。体感的な正しさは体感それ自身によってのみ保証される。たしかにそこには粘土のように歪められた正しさしかないのかもしれない。とはいえ、体感的に正しいものは正しく思われてしまう。この点で、そうした人間の体感こそが、最も身近で謎めいているheimlichハイムリッヒ[2]heimlichというドイツ語は、第一義的には「親しみのある」というほどの意味であるが、他方で「隠された不気味さ」をも意味するとされる。この点に関しては、フロイト著、中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社、2011年、144頁以下などを参照。ホラーの原理であると言えよう。


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ジークムント・フロイト著、中山元訳、光文社、2011年
エドムント・フッサール[著]、細谷恒夫/木田元[訳]、中公文庫、1995年
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1単位に関する反論の他には「集合」に関する反論がある。即ち、+を「くっつける」として解釈することに誤りがあり、一つと一つをくっつけずにそのままお皿に乗せれば二つの粘土となる。今回は、gならば+をどちらで解釈しても数学的に正しくなるのに、個ではそうならないという点に着目し、単位の違いに焦点をあてる。
2heimlichというドイツ語は、第一義的には「親しみのある」というほどの意味であるが、他方で「隠された不気味さ」をも意味するとされる。この点に関しては、フロイト著、中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』光文社、2011年、144頁以下などを参照。


執筆者:S.T.

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