ペドロ・デ・ガンテによる三位一体の説明図

S.T.の夢想日記[第7日]——西洋哲学を民俗学的に読む

 西洋哲学を学んでいると必ず直面することになるのが「神」という話題である。ただし神と言っても哲学的議論において登場する以上、宗教上の神、即ち、信仰の対象としての神ではなく、それを哲学概念化したものである。それによると、神は全知全能にして世界の創造主であり、時間を含めたすべてに先んじて存在している第一原因であるだけでなく、世界全体を取りまとめる統一原理であり、完全性とともに最善という性格も併せ持つ。

 ——なんとも理解に苦しむ話である。なぜ世界全体が一人の者から生じなければならないのかわからないし(複数の作り手を認めてはならない理由とは何か?)、またそれを生み出す一者がなぜ完全無欠でなければならないのかもよくわからないし(世界がどう動くか決まっていないという意見が成立不可能な理由でもあるのか?)、その一者が「善」でなければならないというのもわけがわからない(「完全=善」というのは特殊な価値観ではなかろうか?)……などわからないことだらけである。

 しかし西洋哲学者達はこうしたことをさも必然的であるかのように述べるし、「神」とは違う呼び名でこれを用いつつ暗黙裡の内に前提とする。そしてそのことを自覚してしまうと、この無理のある前提を正当化しようとして、もって回った議論を延々と続ける。私のような異邦人からすると、彼らのそうした議論は意味不明な論理展開を行っているように見えているし、そもそも議論の目的自体に意義があるように思わない。彼らの議論をそのままの形で自らに通用させるというのは無理がある。彼らの議論は彼らの問題でできている、ということをわきまえなければならない。

 だから、哲学というのは民俗学的に扱うべきなのかもしれない。異なる民族の奇妙な思考として観察するのだ[1]この「奇妙」に蔑みの含意は一切ない。「JOJOの奇妙な冒険」がJOJOの冒険を蔑んでいないように、蔑んでいない。。もちろん本人たちは「ヨーロッパ的人間性が、絶対的な理念を内に担っており、たとえば「シナ」だとか「インド」だとかといった単なる経験的な人類学的類型ではないということ」[2]エトムント・フッサール著、細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論新社、1995年、38頁。なおこの後には「あらゆる他の人間性のヨーロッパ化という現象が、それ自体において絶対的意味の支配を告げており、それこそが世界の意味であり〔…〕」と続く。を目指したがるが、こうした主張を真に受けるのではなく、そういう神話として眺めやる。あるいはこれを言い換えて、漫画を読むように哲学書を読むと言ってもよいかもしれない。巨人と戦う漫画を読む者は、巨人と戦うための参考書としてその漫画を読んでいるわけではない。巨人と戦わなくていい。ただ読んでいると面白いから読んでいるに過ぎない。

 ただし誤解してはならないのが、「真に受けない」ことと「無理がある」ことの順序である。西洋哲学を学ぶ際には「無理がある」から「真に受けない」のではない。そうではなく、「真に受けない」から「無理がある」ものを楽しめるのである。有用性を求めると、言われていることに整合性が取れているかどうかという点で情報の真偽を判断しなければならない。しかしそうした場合に西洋哲学というのは、元より無理のある議論なのだから、端から遮断すべきものでしかなくなってしまう。そのため有用性や整合性という基準を無力化して眺めることは、哲学的議論を楽しむ必要条件であるとさえ言える。

 さて、そうなると次に問題となるのが「では、哲学の楽しさはどのような点にあるというのか」ということである。これに関しては一つ一つの哲学著作に当たってみるより他にない。

 だが、広い視野で大雑把に見るならば、あるいは大まかな特徴を見出すこともできるかもしれない。ここはあえて異なる分野から手がかりを得てもよいだろう。以下は、スタジオジブリのアニメ監督として有名な宮崎駿が、「ヨーロッパ人」が描く絵について述べたものである。

たとえば、頭がたくさんある竜を描くのでも、その首のつけ根が生物学的にはいったいどうなっているのか、ヨーロッパ人のようにあいまいにできない民族と、日本人のようにすぐ放棄してしまう民族がいるんです。ラングの童話集では、正確かどうかは分からないにしても、頭が七つある蛇だったら、ちゃんと七つの首のつけ根が描いてあります〔…〕。日本人だったら、ヤマタノヲロチの正確な絵を描くのはあきらめますよ。描けない。こんなところから首が八つも出ているのは気持ち悪い、って。でも彼らは描くんです。それに、説得力があるんです。なるほど、こうやって七つ頭がついているのか、って僕は感心したんですけどね[3]宮崎駿『本へのとびら——岩波少年文庫を語る』岩波書店、2011年、120頁。「日本人」である私がヤマタノヲロチの首が八つでも別に構わないと思わされているという事実(気にする方が野暮)も、この説明に説得力を与えている。

 同じことが西洋哲学にも当てはまるのかもしれない。神とは「足る」を知らず蛇足に蛇足を重ねてすべてを一つにまとめ上げたキメラにしか見えない。しかしヨーロッパ人はその「気持ち悪い」姿を、あいまいにして放棄するのではなく、正確かどうかは分からないにしても、諸性格の「つけ根」から描き切ろうとする。それによって生まれた「三位一体論」や「汎神論」をはじめとする哲学的議論には、「日本人」では描けないグロテスクな精緻さが認められるのであり、その精緻さはそれを目にした者に「ここまで描いたんだ!」という「衝撃」[4]同上、119頁。を与える。衝撃を受けるのは楽しい。もはや他人事ではない。このようにして、正確さを度外視した緻密な世界観が西洋哲学における議論の面白さであると言えるかもしれない。


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関連書籍

エドムント・フッサール[著]、細谷恒夫/木田元[訳]、中公文庫、1995年
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1この「奇妙」に蔑みの含意は一切ない。「JOJOの奇妙な冒険」がJOJOの冒険を蔑んでいないように、蔑んでいない。
2エトムント・フッサール著、細谷恒夫・木田元訳『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』中央公論新社、1995年、38頁。なおこの後には「あらゆる他の人間性のヨーロッパ化という現象が、それ自体において絶対的意味の支配を告げており、それこそが世界の意味であり〔…〕」と続く。
3宮崎駿『本へのとびら——岩波少年文庫を語る』岩波書店、2011年、120頁。「日本人」である私がヤマタノヲロチの首が八つでも別に構わないと思わされているという事実(気にする方が野暮)も、この説明に説得力を与えている。
4同上、119頁。


執筆者:S.T.

アイキャッチ画像:ペドロ・デ・ガンテ《メキシコ先住民のための三位一体の説明図》1525-28年頃


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