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自由と責任——ジャン=ポール・サルトルと世界系の倫理

 フランスの作家/思想家ジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の有名な言葉にこんなものがある。いわく、「人間は自由の刑に処せられている」。サルトルがいまどきどのくらい読まれているのか知らないが、少なくとも一昔前は高校の倫理の授業でも紹介されていた(ちなみに一昔前は思想系の本を扱う古本屋には必ずと言っていいほど人文書院のサルトル全集が並んでいた)。

 サルトルのもうひとつの有名なフレーズといえば、やはり「実存は本質に先立つ」というやつだろう。実はどちらも同じ「実存主義とはヒューマニズムである」と題された講演で語られた言葉で[1]ただし元々の講演タイトルは「実存主義はヒューマニズムなのか」という疑問形だったらしい。それが単行本として出版される際に肯定文に変更された。日本語訳は伊吹武彦訳が『実存主義とは何か』(人文書院、増補新装版1996年)に収録されている。なお、この講演はサルトルの思想の中でも異質な面があるらしいが、その点についてはここでは触れない。、人間には(それもあらゆる存在の中で人間にだけは)人間本性のような定まった本質はなく、人間は主体的にみずからを作り上げることではじめて定義されるという思想である[2]「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される」『実存主義とは何か』42頁。。だからこの場合「自由であること」と「実存が本質に先立つ」ということは基本的に同じことを言っている。自由であるとは、少なくともこの講演の文脈においては、自分で自分の本質を決定することができるということと同じだからである[3]「人間は自由であり、よりどころにしうるような人間の本性などひとつも存在しない」同前59頁。

 しかしこんな風に言ってしまうとサルトルのすごさはよくわからない。サルトルの言っていることはあまりにも当たり前ことのようにしか聞こえない。サルトルの言葉が当時持っていたであろう革新的な響きを感じとるためには、西洋思想史についてのお勉強[4]日本人が西洋哲学を学び始めたときに感じる違和感については、S.T.「S.T.の夢想日記[第7日]——西洋哲学を民俗学的に読む」を参照。と、この講演が第二次大戦後まもなくに行われたという時代状況を考慮に入れる必要がある。だがここではとりあえず、ヨーロッパでは伝統的に人間は神によって作られたとみなされていたということだけ押さえておけば十分だろう。人間は神によって作られたものであり、神は人間をある種の概念にしたがって作った。だから人間は、一人一人の存在に先立ってその本質が規定されている、というわけだ。家を建てるためにはどんな家を建てるかを事前に知っていなければならない。人間を作る場合も同様だ、というわけである。

 ところでこの講演原稿を読むと、「自由」「実存」に加えて、もうひとつの要素があることに気付く。それが「責任」の概念である。自由には責任がともなう、とはよく言われることだが、サルトルの語る責任は通常想像されるような責任にくらべて圧倒的に重い。印象的なフレーズを引用しておこう。「人間はみずからについて責任をもつという場合、それは、人間は厳密な意味の彼個人について責任をもつということではなく、全人類にたいして責任をもつと言う意味である」[5]同前43頁。

 だが、結婚し子供を持つことによってあなたは人類全体に対して一夫一婦制を肯定しているのだと言われたらどうだろうか。おそらく言っていることの意味がうまく理解できないか、少し考えてみてもいやそんなことは考えたことがない、というのが大多数の反応ではないだろうか。突然人類全体がどうこうと言われても、誇大妄想のように思われるのが関の山だろう。

 サルトルによれば、私たちひとりひとりの個人的な行動は単に個人的なものであるだけでなく、人間はこうあるべきというイメージを形成するものであり、この意味において人類全体に対して責任を負っているという[6]「私は、私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである」同前45頁。。実際にサルトルがあげている例によると、共産主義者になるかキリスト教系の団体に入るかといった当時の雰囲気を伝えるような選択から、結婚して子供を作るという今でもありふれた事柄もあげられている。

 しかしこうした反応が生じるのは、ある社会なりある集団において大多数が選択する行動が問題となっている場合である。結婚の例で考えれば、夫婦別姓を主張して制度上の結婚をしないというのは、それがたとえ個人的な動機や感情にもとづいているのだとしても、社会のその他の成員に対してもある種の主張をすることになる。社会や学校、職場のあり方に対してなんらかの疑問を感じるのは、その組織や集団、社会において「普通」とされていることに対して違和感を感じるマイノリティの側や、その「普通」が通用しない集団外部の人たちである。

 しかしそう考えてみても、サルトルの言う責任はあまりにも重い。人類全体に対する責任を負うなんて、ギリシャ神話のアトラスじゃあるまいし、常人の肩にはあまりにも重い責任だ。

 だがここでもまたちょっと考えてみる。自分の行動が全人類に対する責任を伴っているかどうかは知らないが、われわれはつねになんらかの選択をしている。たとえそのことに自覚がなかったとしても。そしてその選択はつねになんらかの帰結をともなう。

 例えば、みんながAmazonで買い物をすれば近所にある小さい本屋はつぶれてしまう。ネットで映画を観るようになれば、人の入らない映画館はなくなっていく。そんなのは当たり前のことだ。日本で衣服が安く買えるのは地球上のどこかでだれかが低賃金で働いているからだし、もしかしたら強制労働もさせられているのかもしれない。最近では牛肉を食べることは地球環境に悪いとも言われている[7]「オックスフォード大学のシニア・リサーチャーに聞く! 丑年にこそ考えたい牛肉と環境問題。」https://www.vogue.co.jp/change/article/year-of-the-ox-sustainability(2022年2月12日閲覧)。私たちの日々のちょっとした選択でさえも、バタフライ・エフェクトよろしく歴史という大きな流れの中でさまざまな帰結を生みだしうるのである。

 とはいえそんなことを言われたところでじゃあ人類全体のために生きようとはなかなかなれないのも人のさがというものである。便利だからネットで買い物をしてしまうし、映画も配信で観てしまう。安い服も買うし、時には牛肉も食べる。人類のためにという抽象的な観念を前にして冷めてしまうことさえあると言ったのはサルトルよりも一世代上のベルクソンだったし、抽象的な善について考えてみてもよい行動を取るようになるわけではないと言ったのはアメリカのプラグマティスト、ローティである。

 しかしそんな自分の行動がより大きなうねりの中のひとつにすぎないこと、それがなんらかの結果に寄与するものであることは時には意識してもいいのかも知れない。最近では人類に残された時間はあまりないともしきりに言われている[8]例えば、斉藤幸平のベストセラー『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年を参照。。きっとそうなんだろう。

 サルトルいわく、「物事は、人間がそう決めたとおりのものになっていく」[9]サルトル『実存主義とは何か』60頁。のであり、「未来を作り出すのはわれわれであり、われわれの一挙手一投足が、その輪郭を描き出すのに貢献する」[10]同前142頁。のである。たぶん。おそらく。きっと。そして「人類は自分の将来が自分次第であることが十分に分かっていない」[11]アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』合田正人・小野浩太郎訳、ちくま学芸文庫、2015年、436頁。のだ。あれ、これはベルクソンじゃん。


関連書籍

ジャン=ポール・サルトル[著]、伊吹武彦ほか[訳]、人文書院、増補新装版1996年
アンリ・ベルクソン[著]、合田正人/小野浩太郎[訳]、ちくま学芸文庫、2015年

1ただし元々の講演タイトルは「実存主義はヒューマニズムなのか」という疑問形だったらしい。それが単行本として出版される際に肯定文に変更された。日本語訳は伊吹武彦訳が『実存主義とは何か』(人文書院、増補新装版1996年)に収録されている。なお、この講演はサルトルの思想の中でも異質な面があるらしいが、その点についてはここでは触れない。
2「人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義される」『実存主義とは何か』42頁。
3「人間は自由であり、よりどころにしうるような人間の本性などひとつも存在しない」同前59頁。
4日本人が西洋哲学を学び始めたときに感じる違和感については、S.T.「S.T.の夢想日記[第7日]——西洋哲学を民俗学的に読む」を参照。
5同前43頁。
6「私は、私自身にたいし、そして万人にたいして責任を負い、私の選ぶある人間像をつくりあげる。私を選ぶことによって私は人間を選ぶのである」同前45頁。
7「オックスフォード大学のシニア・リサーチャーに聞く! 丑年にこそ考えたい牛肉と環境問題。」https://www.vogue.co.jp/change/article/year-of-the-ox-sustainability(2022年2月12日閲覧)
8例えば、斉藤幸平のベストセラー『人新世の「資本論」』集英社新書、2020年を参照。
9サルトル『実存主義とは何か』60頁。
10同前142頁。
11アンリ・ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』合田正人・小野浩太郎訳、ちくま学芸文庫、2015年、436頁。


執筆者:渡辺洋平

アイキャッチ画像:Photo by Matt Palmer


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