セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》

コンテキスト変容へのレジリエンス(中編)

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■個人の中で意味づけ・価値づけの「遊び」があること

 人生の中での目標の変化の体験、死の実感、夢の体験などにより、私たちは、それまでの世界や自分に対する意味づけ・価値づけが(自分のなかでさえも)唯一のものではなく、変更される可能性があることを体験的に知ることができる。

 とは言え、人生の中で大幅な目標の変化を体験する人も、まざまざとした死の実感を持つ人も稀である。夢もほとんどの人が覚えていないし、夢が覚めれば昨日と同じ現実の目標が待っている。この世界の意味付けの変更可能性は、ほとんどの人には自覚される機会に乏しいと言える。

 しかし、「この世界の意味付けには原理的に変更可能性がある」という理解は、自分の世界の見方を硬直させず、そこに振れ幅、「遊び」の幅をもたらすことに、貢献するのではないだろうか。

 「遊び」とは、機械の連結部分などが、ぴったりと付かないで少しゆとりがあることを指す。いまの世界の見え方は唯一絶対のものではなく、「その見方が成立する、特定の目標を目指すコンテキスト」が変われば、変化する余地がある。このことへの理解があるのとないのとでは、世界の意味付けの変化そのものや、自分とは異なる見方を持つ人に対する態度が変わってくる。

■他者はコンテキストが異なるからこそ他者である

 自分とは異なる見方をする他者が存在し、彼らと簡単に合意を結ぶことができないのは、ことさらに「どちらかが正しくどちらかが間違っているから」、「どちらかがより理性的でどちらかがより非理性的だから」というだけではない。他者の異質性は「置かれているコンテキストが異なるから」と考えることができる。

 同じ場所で同じ時間に同じものを見ても、AさんとBさんでは捉え方が異なる。それは、AさんとBさんの「同じ場所で同じ時間に同じものを見る」以外のところ、すなわち両者の将来(の目標)と過去、ないしは過去解釈が異なるからだ、と考えることができる[1]このことについて、の次の言葉と通じるところがあると考えられる。「人を有益にたしなめ、その人にまちがっていることを示してやるには、彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら、それは通常、その方面からは真なのであるから。そしてそれが真であることを彼に認めてやり、そのかわり、それがそこからは誤っている他の方面を見せてやるのだ。彼はそれで満足する。なぜなら彼は、自分がまちがっていたのではなく、ただすべての方面を見るのを怠っていたのだということを悟るからである。ところで人は、全部は見ないということについては腹を立てないが、まちがったとは思いたがらないものである。これはおそらく、人間というものは、あらゆるものを見ることなどできないのが自然で、また自分が眺めている方面についてならば、まちがいえないのが自然であるということに由来するのであろう。感覚の知覚というものは、常に真であるから。」(『パンセ』(第1巻)、ブレーズ・パスカル著、前田陽一、由木康訳、中公クラシックス、2001年 、第1章、9(ラ701))。

■コンテキスト変容そのものは任意のコンテキストに収まらない

 私たちは特定の目的を目指す際、その目的達成にとって有用な過去に焦点を当て、その特定の過去を「自分に固有な過去」として目立たせるようになる。そして、それらの過去の経験をもとに、目的達成に有用だと思われる因果関係を算出する。その因果関係のコンテキストにおいて、世界は意味づけられるようになる。

 前編で挙げた例で言えば、大学合格を目指す人なら、過去のあのような時間の過ごし方は有意義だった、あれは無駄だったなどと、大学合格という目的達成に資するかどうかで過去の経験を評価し、そこから「このような人と授業は効果がないだろう」、「このような勉強法は試す価値があるだろう」と、因果関係を形成し、物事の意味づけや価値づけを行うようになる。

 しかし、この特定の目的達成への因果関係における意味づけは、それがいくら精緻になり、洗練されたとしても、その目的達成にとって「より役立つ」ようになるだけである。つまり、特定の目的を目指す因果関係は、目的そのものの消失や動揺や変更そのものに対しては、「役立た」ない。

■任意のコンテキストの絶対化という「脆さ」

 同じく前編で挙げた例で言えば、大学合格のための過去問の研究、効果的な勉強法の確立などは、大学合格には役立つだろう。しかし、大学合格から花火職人への目標変更や、死の実感に伴う世界の意味付けの動揺そのものに対しては「役立た」ない。むしろそれは、「大学合格こそ全てだ」というような一元的な世界観を強化し、硬直化させ、それ以外の世界の見方への不寛容をもたらしうる。その意味では、(「柳に雪折れ無し」という諺の逆で)ある種の脆さですらある。

 この種の脆さは、自身の世界の見方の正当化のために、他者の(あるいは、自分の中の他の)コンテキストを排除せざるをえない。その点で、世界観の「維持コスト」が高い。つまり、他者の世界の犠牲なくしては成立できず、その意味で非常に「環境破壊的(environmentally destructive)」であり、そのようにして、周囲の「生物多様性(biological diversity)」ならぬ「コンテキスト多様性(contextual diversity)」を不可能にする。

■コンテキスト変容へのレジリエンスを持つこと

 それに対して、意味動揺そのものに対するレジリエンス(resilience=弾力性)を持つ人は、他なるコンテキストを否定するのではなく、他者のものと並列的に自分自身のコンテキストを維持することが可能である。それは他者の犠牲を要しない、「環境に優しい(environmentally friendly)」態度だと言える。

 ある人が「環境に優しい」か否かは、その人の周囲の雰囲気で感じとることができる。「環境に優しくない」人、自身の世界観の「維持コスト」が高い人は、周りが話を合わせなければならない人、つまり、自身の世界の意味づけに弾力性がなく、その人の関心のない世界の話は最初からできないと感じさせる人である。反射的に上から目線で否定されるという予測ができる。そのような人は、もともと同じ「維持コスト」が高いタイプの人あるいは集団に強く影響を受け(合わさせられ)、脇目も振らずに(振れずに)強迫観念的に「努力」をする他なかった結果(よって、そのような人は異常に「努力」家であることが多い)、自分の世界の見方に「遊び」の余地(振れ幅)がなくなってしまったのだと思われる。厳しい基準に合格するためには、世界の見方の「ブレ」は「無駄」であり、省かなくてはならないからだ。そうして自らもまた、自身の世界の硬直性(強張り)を、周囲に強要・連鎖させる在り方しか知らないのである。

 逆に、「コンテキスト多様性」を可能にする人とは、周りが必要以上にかしこまらなくてもよい人、比較的本音で話したとしても、自分の世界の見え方をそこまで否定されることはないと感じさせる人である。最終的に意見が合わなかったとしても(そのこと自体はよくあることであり、問題ではない。多様なコンテキストが同居するならば自然なことである)、少なくともこちらの意見を同じ目線に立って一考してくれるだろう、という期待ができる。そのような人は、ある程度リラックスした雰囲気で、ざっくばらんに話をさせてくれる(ただし、これらは二つの極端な在り方であって、ほとんどの人はこの両極の間のどこかに位置する。また、話題や状況によってもその位置は変化するだろう)。

 後者寄りの人は知らず知らずのうちに、周囲の人に「癒し」を与えていることがある(人が自分の話を誰かに聞いてもらうことは、そのこと自体がすでに「食べ物やセックスなどの一次報酬(primary reward)と同じように、本質的な価値を持つ」という[2]ハーバード大学心理学部のジェイソン・ミッチェルとダイアナ・タミルによる研究。Diana I. Tamir and Jason P. Mitchell, “Disclosing information about the self is intrinsically rewarding,” 2012. (https://www.pnas.org/content/109/21/8038)(2021年4月5日閲覧))。しかし、経済地理学者のデヴィッド・ハーヴェイが述べるように、現代は経済合理性が何よりの「倫理」となっている時代である[3]「新自由主義は、市場での交換を「それ自体が倫理であり、人々のすべての行動を導く能力をもち、これまで抱かれていたすべての倫理的信念に置きかわる」ものと評価し、市場における契約関係の重要性を強調する。それは、市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会財は最大化されるという考え方であり、人々のすべての行動を市場の領域に導こうとする。」(『新自由主義―その歴史的展開と現在』デヴィッド・ハーヴェイ著、渡辺治他訳、作品社、2007年、12頁)。そんな中、周囲のコンテキスト多様性を保護するという別様の「倫理」は、日の目を見ない「シャドウワーク」[4]シャドウワークとは「人間生活に必要不可欠のものでありながら、家事労働のように賃金の支払いを受けない労働」のこと(『大辞林』)。の地位に甘んじることになる。それは、市場においては「無駄」な、趣味的な、任意のものだからである(会社の利益を上げるために従業員の「コンテキスト多様性」を保全しようとする組織は、多くはない)。

 目的とそれに伴う意味づけの消失、動揺、変化そのものを、特定の目標達成のための因果関係の中で捉えることは不可能である。意味動揺そのものは、特定の目標に向かう因果関係の外に位置するからである。目的の消失、動揺、変更そのものに対して何かしら「用意」や「準備」が可能であるとすれば、それはこの因果関係にとってメタ的な、別様の「用意」であるはずである。しかし、その用意は具体的に、どのようにして可能になるのだろうか。(続く)

コンテキスト変容へのレジリエンス(前編)


関連書籍

ブレーズ・パスカル[著]、前田陽一/由木康[訳]、2001年
デヴィッド・ハーヴェイ[著]、渡辺治[監訳]、作品社、2007年

1このことについて、の次の言葉と通じるところがあると考えられる。「人を有益にたしなめ、その人にまちがっていることを示してやるには、彼がその物事をどの方面から眺めているかに注意しなければならない。なぜなら、それは通常、その方面からは真なのであるから。そしてそれが真であることを彼に認めてやり、そのかわり、それがそこからは誤っている他の方面を見せてやるのだ。彼はそれで満足する。なぜなら彼は、自分がまちがっていたのではなく、ただすべての方面を見るのを怠っていたのだということを悟るからである。ところで人は、全部は見ないということについては腹を立てないが、まちがったとは思いたがらないものである。これはおそらく、人間というものは、あらゆるものを見ることなどできないのが自然で、また自分が眺めている方面についてならば、まちがいえないのが自然であるということに由来するのであろう。感覚の知覚というものは、常に真であるから。」(『パンセ』(第1巻)、ブレーズ・パスカル著、前田陽一、由木康訳、中公クラシックス、2001年 、第1章、9(ラ701))。
2ハーバード大学心理学部のジェイソン・ミッチェルとダイアナ・タミルによる研究。Diana I. Tamir and Jason P. Mitchell, “Disclosing information about the self is intrinsically rewarding,” 2012. (https://www.pnas.org/content/109/21/8038)(2021年4月5日閲覧)
3「新自由主義は、市場での交換を「それ自体が倫理であり、人々のすべての行動を導く能力をもち、これまで抱かれていたすべての倫理的信念に置きかわる」ものと評価し、市場における契約関係の重要性を強調する。それは、市場取引の範囲と頻度を最大化することで社会財は最大化されるという考え方であり、人々のすべての行動を市場の領域に導こうとする。」(『新自由主義―その歴史的展開と現在』デヴィッド・ハーヴェイ著、渡辺治他訳、作品社、2007年、12頁)
4シャドウワークとは「人間生活に必要不可欠のものでありながら、家事労働のように賃金の支払いを受けない労働」のこと(『大辞林』)。


執筆者:エドガー・ジェニングス・プラム(Edgar Jennings Plum)

アイキャッチ画像:ポール・セザンヌ《レ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山》1902-06年
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Montagne_Sainte-Victoire,_par_Paul_C%C3%A9zanne_111.jpg


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