山に生えるキノコ

事実と虚構[第2回]キノコのイデア――プラトンと虚構について(1)

キノコとの出会い

 最近近所の山によく登りにいくようになった。三百メートルほどの高さの小さな山だが、アップダウンが多く結構な運動になる。また、少し登っただけで、植生が変わり、家の周辺では見かけない珍しい草花の姿が見られる。川沿いを歩くと、きれいな水晶なども落ちている。ただ単に健康になるだけでなく、街中にいるだけでは触れることのできない自然に触れることができるのは、私にとって大きな喜びとなっている。

 ただ、山登りの最大の目的はキノコである。山中には枯れた木々や腐葉土がふんだんにあり、キノコが発生するには絶好の条件が揃っている。実際に無数のキノコたちが生えていて、スーパーに置かれているおなじみのキノコに似ているものもあれば、およそこの世界のものとは思えない異形のものもある。こういう時は、キノコに無知のほうがありがたい――何も知らない無垢な子どもがあらゆる物事に強い感動と興奮をもって接することができるように、出くわすキノコはみな、私に新鮮な驚きをもたらしてくれる。

 ひとしきりキノコとの邂逅を済ませたあとで、また別の欲求が湧き上がってくる。せっかくさまざまなキノコと出会うのだから、出会ったキノコを持ち帰り、調理して食べてみたい。野生のキノコは人の手が加わって大量生産されたものと比べ味も全然違うと聞く。スーパーで手に入らない、かわったキノコも食べてみたい。そうはいいながらも、もちろんその次に頭をよぎるのは、キノコの毒である。見知らぬキノコを口にするのは自分の命を賭けたギャンブルに近い。経験豊かそうなキノコの達人でも誤って毒キノコを口にすることもある。また、食用と長らくみなされてきたキノコが研究によって有毒と分かったという例も少なくない。昔のキノコ図鑑で「食用」となっていたものも、時代を経て「食に適さない」とされていたりする。野生のキノコを口にするのには、誰であれ、ふんだんな知識と少しの勇気が必要なのだろう。

魔法のキノコ図鑑とイデア

 このようなキノコ事情にあって、ふと、「魔法のキノコ図鑑」が欲しくなってくる。そこに載っているキノコの情報はすべて完全に正しく、そして新しい情報が更新されることもない図鑑である。そのような完璧な図鑑があれば、見つけたキノコが何という名であり、可食かどうか、その味はどのようなものか、どう調理したらよいかもすぐに分かるだろうし、更新によって知識が古くなることもないだろう。あらゆるキノコを網羅した図鑑でなくとも、ある一つの種のキノコのことを完璧に理解できるなら、それに越したことはない。しかし、当然ながら、そのような図鑑がまだまだSFめいた夢物語なのは言うまでもない。

 しかし、ここにプラトンがいたとしよう——言うまでもなくプラトンは哲学史上もっとも偉大な哲学者の一人である[1]プラトンは、およそ紀元前427年から347年、おもに古代のギリシアを中心に活躍した哲学者である。彼は同じく古代ギリシアの哲学者として著名なソクラテスの生徒であり、ソクラテスの死後、諸国を巡ったのちに、アテナイにアカデメイアという学校を設立した。。おそらく彼は嬉々として近寄ってきて、こう言うだろう。「いやいや、その「魔法のキノコ図鑑」とやらは、本当に存在するんだよ。私たちは、本当はそれを見たことがあるはずなんだが、忘れているだけなんだ!君は「魔法のキノコ図鑑」と言っていたね。それはそれで面白いネーミングだが、それは、われわれの言葉でいうなら、まぁ「キノコのイデア」となるだろうがね!」

 どういうことだろうか?しばらく彼の話に耳を傾けてみよう。


 この世界にあるもの、たとえばテーブルやペン、人間といったものがある種に属すると考えるかぎり、私たちはその種の「イデア」[2]教科書的な解説を一つ。イデアは昔のギリシア語でἰδέα(イデアー)と表されていた。この(イデアー)自体は動詞ἰδεῖν「イデイン=見る」に由来し、「見られたもの」といった意味をもつ。何によって見られるのだろうか?それは――人間の認識論に話を限定するなら――「人間の魂」に見られるものである。をもっているとプラトンは考える。そのいきさつは、おおまかに次の①から③で表される。

① 私たちは、感覚によって捉えられたものが、ある別のものに似ていると考えるとき、その規準となるものを知っている。それがイデアである。

②イデアは、私たちが感覚を持ち始めるより前、つまりこの地球に生まれるより前に得られている。具体的には、私たちの魂によってこの地球に生まれるより前に認識されている。

③イデアは、私たちが地球上に人間の身体をもって生まれる際にすべて一度忘れてしまうが、ある機会にそれを思い出すことができる。

 例えば、目の前にあるキノコAが、「マツオウジ」と呼ばれるキノコBに似ていると気づくとき、私たちは、AとBの類似性を認識すると同時に、Aが「マツオウジ」という種に属するという考えに至る。それは、「マツオウジである規準」と照らし合わせて、Aが同一でないところもあるが大部分が同じものだという認識によって可能となる。この規準を、プラトンはイデアと呼んだ。プラトンによれば、私たちはこのとき、「マツオウジのイデア」を想起しており、それによってキノコAがマツオウジであることを理解しているのである。もちろん、キノコ観察をつい最近始めた私は、「マツオウジ」というキノコがあること自体、まったく知らなかった。しかし、これは私がただ忘れていただけなのであって、実際にマツオウジを見、ついでそれに似たキノコをいくつか見たことをきっかけとして、「マツオウジのイデア」を思い出したのである。同様のことが、例えば「赤のイデア」「リンゴのイデア」「美のイデア」といった概念が、私たちが「赤」「リンゴ」さらには抽象的な「美」といったものが何であるかを理解するのに用いられる。プラトンはキノコ名人ではないので、彼の頭の中に「キノコのイデア」という概念が一度でもよぎったかどうかは疑わしい。しかし、プラトンないし彼の先生であるソクラテスの話をキノコに適用すれば、問題なく「キノコのイデア」、ないし「マツオウジのイデア」といったイデアが認められることは明らかである。そして、私たちの認識を、「イデアを思い出すこと」によって説明するこの原理は、今日では「想起説」と呼ばれている。


 以降の記事では、①から③のポイントについて、角度を変えながら議論していく。そして、最終的には、プラトンの哲学に「事実―虚構」の問題系が含まれていることを示していきたい。ただし今回の記事では、次回の議論の展望を先取りして紹介するにとどめておく。

 多くの人は、プラトンの「生まれるより前に得られる」「想起される」という言葉に違和感をもつだろう。それは私たちの経験に明らかに反している。私たちがものの規準、例えば「目の前にあるテーブルはテーブルといってよいか」とか、「この赤い野菜ははたしてトマトだろうか」といったことを学ぶのは、明らかに「生まれた後」だからである。また、かりに私たちがあるものの規準に到達したとしよう。しかし、それを「イデアを想起する」という言葉で説明することには、あまり意味があるようには思われない。「これはマツオウジだ」という認識に、「この認識は想起されたものだ」と言ったところで、「これはマツオウジだ」という認識の内容は変わらない――少なくとも私たちにはそう思える。では、「イデア」のような概念をわざわざ使う必要はないのではないか。さらには、「あらかじめ認識しているが忘れている」という、なかなか確かようもないことを信じる気にはなかなかなれないだろう[3]すでにプラトンの生徒であったアリストテレスが、その難点についていくつもしっかりと指摘している(Cf. アリストテレス(出隆訳)『形而上学(上)』、岩波文庫、1959年、58-69頁)。

 このように、プラトンの想起説には、数多くの困難が伴っている。では、なぜプラトンは「イデア」や「想起」といった怪しげな概念を持ち出したのだろうか。私は、プラトンの先生であったソクラテスの「無知の知」に対して、プラトンが「尻拭い」をすることが必要だったからだと考えている。それはいわば、ソクラテスを論敵から守る消極的な行為だった――少なくとも初期の想起説は、それ自体が人間の思想にとって生産的なものだとは思われない。しかし、のちにみていくように、この消極的な尻拭いは、プラトンの手によって彫琢されることで、哲学史上何物にも代えがたい遺産となった。そして、この遺産のなかには、事実と虚構の関係性がもつ、一つの本質が潜んでいるのである。(続く)


関連書籍

ワタリウム美術館[編集]、萩原博光[解説]、新潮社、2007年
アリストテレス[著]、出隆[訳]、岩波文庫、1959年

1プラトンは、およそ紀元前427年から347年、おもに古代のギリシアを中心に活躍した哲学者である。彼は同じく古代ギリシアの哲学者として著名なソクラテスの生徒であり、ソクラテスの死後、諸国を巡ったのちに、アテナイにアカデメイアという学校を設立した。
2教科書的な解説を一つ。イデアは昔のギリシア語でἰδέα(イデアー)と表されていた。この(イデアー)自体は動詞ἰδεῖν「イデイン=見る」に由来し、「見られたもの」といった意味をもつ。何によって見られるのだろうか?それは――人間の認識論に話を限定するなら――「人間の魂」に見られるものである。
3すでにプラトンの生徒であったアリストテレスが、その難点についていくつもしっかりと指摘している(Cf. アリストテレス(出隆訳)『形而上学(上)』、岩波文庫、1959年、58-69頁)。


執筆者:豊川祥隆(大学非常勤講師)

アイキャッチ画像:山に生えるキノコ。著者撮影。