ウィーン分離派館

近代建築事始め[第4回]——ウィーン分離派の結成

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 「ウィーン分離派」と現代日本に住む多くの人々、つまり私たちが呼ぶ芸術の一派は、1897年4月3日に結成された。ヨーゼフ・ホフマン、ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ、グスタフ・クリムトを中心に結成され、初期にはオットー・ヴァーグナーも参加していた。グループの正式名称は「オーストリア造形芸術家協会Vereinigung bildender Künstler Österreichs」だが、彼らが「ウィーン分離派Wiener Sezession」[1]分離派を表すSezessionは、古代ローマにおける庶民の貴族に対する反抗運動を指すラテン語secessio plebisに由来するとされる。以下を参照。安永麻里絵「分離派会館と分離派展―総合芸術の理想と市場戦略―」池田裕子編『ウィーン 総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、232-252頁。として知られているのは、グループの結成とほぼ同時に既存の芸術家団体である「ウィーン造形芸術家組合Genossenschaft bildender Künstler Wiens」から脱退したためである。「ほぼ」と書いたのは若干のタイムラグがあるためだが、これは分離派の結成によって組合が新しいグループを厳しく締め付けたことに応じての脱退なので、分離派の結成と彼らの組合からの脱退は連動しているとみるべきだろう。

 彼らが独立を果たした対象であるウィーン造形芸術家組合は通称をキュンストラーハウスと言い、1861年に結成された一種の同業者組合だが、公的教育機関であるアカデミーと並ぶ権威を持ち、市内に唯一の本格的な展示場を有しており、オーストリアのほぼすべての造形芸術家が所属していたという。

 展示のための場所を握っているということは、そこで発表される作品を選ぶことが出来ることを意味する。分離派を結成した面々はおそらくもっと自由に作品を発表できる場を必要としていたのだろう。創設メンバーの一人ヨーゼフ・マリア・オルブリヒの設計によってウィーン市内に分離派が借りた土地に建てられた分離派所有の展示施設、分離派館の入口上部には誇らしげに次のような文言が掲げられている。

——時代にはその芸術を、芸術には自由を——
DER ZEIT IHRE KUNST, DER KUNST IHRE FREIHEIT

 主語も述語も欠き完全な文章をなしていないこの言葉は、おそらくはポスターにおけるタイポグラフィのような効果を持たせるためだろう、ドイツ語の記法を無視してすべて大文字で記されている(この文章では読みやすさのためにKUNSTとしたが、掲げられた文字列ではKVNSTになっている。古典期のラテン語ではアルファベットは23文字しかなく、母音uの音を表すのにvの文字を用いたという。確信や裏付けのある話ではないが、現代の私たちからすれば読みにくいだけのこうした誤字(?)もまた自分たちのスローガンに正当性や伝統に連なっているという威厳を加えようとした彼らなりの意匠ではないかと考えられる)。書かれてはいないものの、この言葉の続きとして「与えよ」が意図されていたことを読み取るのは、そう難しいことではないだろう。

 分離派は、ウィーンにのみ起こったわけではない。ミュンヘンやベルリンをはじめとして、西欧や中欧のいくつかの都市で起こった。彼らは互いの動向を当時流通の盛んになってきていた雑誌などによって知り刺激を受け、連帯したかのようにも見えるほど矢継ぎ早に各地で結成された。

 とはいえ、彼らが実際に連帯していたのか、彼らの間に同時期に分離派の結成に導かれるような何らかの共通の原理、背景、気質があったのか、寡聞にして私は知らない。だが、同業者たちが遠く離れた都市でこれまでとは違う何かをやって盛り上がっているのを知れば、自分たちもやってみようと考えたとしても特に不思議はないように思われる。もちろんこうした集団心理のようなものにのみ帰着させて足れりとするわけにもいかないだろうが、国をまたいだ複数の都市で連鎖的に分離派運動が起こったこと自体には、上記のように互いの動向を知ることのできる環境が整いつつあったことを考えれば特に不思議はないということである。

 ここで問題としたいのは、そうした共鳴作用によりウィーン分離派がどのような活動を行い、それがどのような結果となったか、そしてそうした一連の事象がこの文章の主題である建築と芸術の関係についての当時の考えとどうかかわってくるのかということである。分離派の主要メンバーにオルブリヒやホフマンといった若い建築家がいたことは上述の通りである。この新しい芸術運動が分離派館という発表の場(を含んだ建物)を必要としたことも上に書いたが、彼らの中にはそうした場や空間全体を一つの芸術作品として仕上げようとする傾向を表す者が出てきたのである。分離派の中に芽生えたこうした傾向こそ、ロースが徹底的に糾弾した対象であり、その体現者とみなされたホフマンはロースにとって生涯の敵となるのである。

(続く)


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1分離派を表すSezessionは、古代ローマにおける庶民の貴族に対する反抗運動を指すラテン語secessio plebisに由来するとされる。以下を参照。安永麻里絵「分離派会館と分離派展―総合芸術の理想と市場戦略―」池田裕子編『ウィーン 総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、232-252頁。


執筆者:岸本督司

アイキャッチ画像:ウィーン、フリードリヒシュトラーセ12に立つセセッション館。ヨーゼフ・マリア・オルブリヒ設計、1898年竣工。Photo by Thomas Ledl / CC-BY-SA-4.0