ロースの論考が掲載された1900年4月26日付の『新ウィーン日報Neues Wiener Tagblatt』

近代建築事始め[第7回]——ロースによる分離派への批判:分離派と「総合芸術」

 前回はこちら
「近代建築事始め」連載一覧


 まずは起点について検討しよう。ロースによるホフマン、あるいは分離派への攻撃は、いつ、どのような形で始まったのか。これを知ることでおそらくもう一つの疑問、すなわち、ロースがなぜそれをおこなったのか、へのアプローチが見えてくると思われる。

 まず時期だが、これはロースの論考発表歴を整理しつつ検討していくことにしよう。

 手元の資料[1]本稿におけるロースの論考発表歴は、邦訳書『ポチョムキン都市』(加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、みすず書房、2017年)の巻末に掲載されている論考リストに依拠している。ではロースの言論活動は、1897年に雑誌『時代Die Zeit』紙に掲載された「工芸学校の展示会」に始まり、この年のうちに同紙に四編を寄稿している。ちなみにだが、そのうちの一編「ウィーン市のコンペ」には、早くもホフマンとオルブリヒの名が登場している。二人は、自らの芸術的連帯の姿勢を示すために勝ち残る見込みのないコンペに挑戦した芸術家として描写され、称賛されているとまではいえないがどちらかといえば肯定的な調子で描き出されている。翌1898年は他紙も含めて春先までに三編の論考を発表したのち、一流紙『新自由日報Neie Freie Presse』において、同年ウィーンで開催される皇帝即位50周年記念展覧会についての連載記事を執筆している。

 ロースが分離派の機関誌『ウェル・サクルム(聖なる春)』にて論考を発表したのは1898年7月の「ポチョムキン都市Die Potemkin’sche Stadt」が最初である。この論考では、ウィーンの建築における材料のイミテーションやセメント造の装飾が釘付けにされたファサードといった、詐欺的手法による高級感や豊かさの演出、さらにはそうした演出を無批判に受け入れているウィーン市民の成金気質が批判されているものの、少なくともホフマンあるいは分離派を批判する内容ではない。

 では、いったいいつごろロースのホフマンや分離派への敵対的態度が明確になったのかといえば、実のところはっきりしたことはわからない。1897年から1898年の間にロースが分離派館の内装の仕事に名乗りを上げ、ホフマンがそれを拒絶して以来とする風説もあるが、確証のある話ではない。仮にこれが事実だったとしても、人間関係や感情的対立に話を帰着させて満足するわけにはいかないだろう。両者の間の思想対決を検することであぶりだされるであろう建築と芸術の関係についての当時の思考を把握するのが本稿の目的だったはずである。

 ロースによる分離派への批判意図が明確に見て取れるのは、1900年4月に『新ウィーン日報Neues Wiener Tagblatt』紙に発表された「ある哀れな、金持ちの男の話Von Einem reichen armen Mann」[2]本稿ではこの論考のタイトルを原題と併せて直訳調で提示したが、邦訳書では、「金持ちゆえに、不幸になった男の話」とされている。以下を参照。『アドルフ・ロース著作集1 虚空へ向けて1897-1900』(加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、編集出版組織体アセテート、2012年)258頁。においてである。これが最初とは断言できないが、ロースによる分離派への批判は彼の最晩年まで続くことを思えば、かなり初期のものであることは確かである。

 この論考は全体が一つのたとえ話として語られている。登場するのはある金持ちの男と一人の「建築家」である。この「建築家」は、分離派の一員ではないにせよ、分離派と関係のある人物、もしくは関係者の関係者のような人物であろうことが後段で暗示される。

 この金持ちの男は何不自由ない暮らしを送っているが、ふと自分の人生には芸術が欠けていることに気づき、それならばと自分の住宅に芸術を迎え入れ、自身の生活を芸術で満たそうと思い立つ。そしてそれを「建築家」に依頼するのである。「建築家」はよしきたと請け負い、男の家に行くとまず家具をすべて捨てさせた。そして家具職人や寄せ木細工職人などあらゆる室内装飾に関わる職人が呼び寄せられ、「建築家」の指示のもとで次々と家具が運び込まれ、家に新たに配置されていく。こうして男の家は「芸術」に満たされた家として新たに生まれ変わったのである。

 生まれ変わった家に「金持ちの男」は大喜びである。日用品のすべてが「芸術」に生まれ変わり、彼は「芸術」に触れながら、いや「芸術」に包まれた状態で恍惚として日常生活を送ることになった。だが、彼の幸せな生活は長くは続かなかった。

 「建築家」によってすべてが芸術的に完璧に仕立て上げられたこの家は、物の配置も全体の統一感を考慮に入れて決定されており、「建築家」はこの男に許可なくものを動かしたり、別のものと取り換えたりすることを禁じたのである。男は灰皿の位置を変えたり、誕生日のプレゼントをもらったりというような些細な、そして当然許されてしかるべき事柄にまで口出しされたり禁止されることにやりきれなくなり、分離派の絵画を新たに買うのはどうだと切り出す。「分離派の絵を買うなとはさすがに言えまい」と男は考えたのだということが読者にも察せられ、先に述べた「建築家」と分離派との関係が暗示される。

 「建築家」は男の読み通り、分離派の絵を買うなとは言わなかった。分離派の絵を買うのなら、置く場所を考えてみても良いと言う。しかし「建築家」は続けて、自分は男の家を作り替える際、配置した絵に合わせて壁に額縁を仕込んであり、絵をわずかにでも移動することはできないと告げる。「建築家」は美的調和を損なわずに新たな絵を配置することが不可能であると男に悟らせたのである。男は自分の希望の通り「芸術」で満ち溢れた我が家を見まわし、自分にはすべてが備わってしまったこと、それゆえにもう何一つ自分の生活に付け加えることが出来ず「未来の生活から、努力の計画から、そして希望からも、とうとう締め出されてしまったのだ」[3]Adolf Loos, ”VOM ARMEN REICHEN MANN”, Gesammelte Schriften, Adolf Opel(hrsg.), Lesethek Verlag, Wien, 2010, S. 267.(『アドルフ・ロース著作集1』前掲書、264頁)。ということを思い知り、暗い気持ちになった、というところで話は終わる。

 この話から読み取れるロースの主張と思想的態度の吟味に移る前に、この話と現実とのつながり、そして差異について指摘しておきたい。まず、つながりについて。話の中で分離派と「建築家」との関係が暗示されていたことからもわかるように、作中の「建築家」のような傾向、つまり芸術作品を、それが展示される空間と併せてデザインし、展示空間と絵画作品を一体のものとして総合的に体験させようとする傾向は、分離派の中に確かにあった。彼らはそのようにして目指された芸術体験の在り方とそれを意図した芸術作品およびその空間構成を総合芸術作品(Gesamtkunstwerk[4]池田裕子「序 総合芸術に宿る夢——芸術作品としてのウィーン、そしてオーストリア」『西洋近代の都市と芸術4 ウィーン――総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、17頁を参照。)と呼んだ。総合芸術という言葉自体は、ジャンル横断的な芸術表現や鑑賞形態の追及を指す比較的一般的な言葉だが、ウィーン分離派の場合は、特に作品とそれが置かれる空間という意味で用いられる。ロースがこの話で分離派を持ち出したのは、分離派のそうした傾向が、芸術を超えた領分、すなわち建築空間の領域に必然的にはみ出してくるためだろう。建築はまた、ロース自身の生業でもある。口を出さずにいられなかったとしても無理はないように思う。

 次に、「差異」についても述べておこう。この話の中で描かれる「建築家」は自身の芸術的(あるいは美的)表現の達成のために最終的には依頼主の自律的判断や自由意志をも踏みにじる非常に専制的な人物のように見えるが、さすがにここまでやった建築家はいなかっただろう。ロースがモデルにした可能性のある分離派に関与した建築家といえばヨーゼフ・ホフマンやヨーゼフ・マリア・オルブリヒが思い浮かぶが、彼らが顧客の人生を「完成」させて身動き取れなくしたという話は、少なくとも私は聞いたことがない。反対にロースには、かなり細かい部分にもこだわる性格であり依頼主に無茶な要求をすることもある建築家だったことを示すエピソードがいくつかあるのだが、これはまたいずれお話ししよう。

 今回は、ウィーン分離派の「総合芸術」的志向について、ロースが自身の論考の中でたとえ話の形で批判的に取り上げた例を紹介してきた。では、分離派は実際に、芸術作品をどのように展示し総合芸術として仕上げたのか。分離派が実施したいくつかの展覧会を取り上げて、展示空間がどのように構成され、そこにはどんな意図が込められていたのか、次回以降検討を深めていこう。そうすることで、本連載の第一回で提示した「建築」や「芸術」といった観念的であいまいなカテゴリーの境界が現実の展示空間においてどのように問題とされたかが見えてくると思われる。


「近代建築事始め」連載一覧
第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回


関連書籍

アドルフ・ロース[著]、加藤淳[訳]、中谷礼仁/鈴木了二[監修]、みすず書房、2017年
アドルフ・ロース[著]、加藤淳[訳]、中谷礼仁/鈴木了二[監修]、編集出版組織体アセテート、2012年

1本稿におけるロースの論考発表歴は、邦訳書『ポチョムキン都市』(加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、みすず書房、2017年)の巻末に掲載されている論考リストに依拠している。
2本稿ではこの論考のタイトルを原題と併せて直訳調で提示したが、邦訳書では、「金持ちゆえに、不幸になった男の話」とされている。以下を参照。『アドルフ・ロース著作集1 虚空へ向けて1897-1900』(加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、編集出版組織体アセテート、2012年)258頁。
3Adolf Loos, ”VOM ARMEN REICHEN MANN”, Gesammelte Schriften, Adolf Opel(hrsg.), Lesethek Verlag, Wien, 2010, S. 267.(『アドルフ・ロース著作集1』前掲書、264頁)。
4池田裕子「序 総合芸術に宿る夢——芸術作品としてのウィーン、そしてオーストリア」『西洋近代の都市と芸術4 ウィーン――総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、17頁を参照。


執筆者:岸本督司

アイキャッチ画像:ロースの論考が掲載された1900年4月26日付の『新ウィーン日報Neues Wiener Tagblatt』紙の紙面
出典:https://anno.onb.ac.at/cgi-content/anno?aid=nwg&datum=19000426&seite=1&zoom=33