近代建築事始め[第8回]——第一回分離派展の展示会場


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近代建築事始め[第7回]——ロースによる分離派への批判:分離派と「総合芸術」

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 今回から少しずつ、ウィーン分離派の行った展示会、分離派展について彼らの「総合芸術」的傾向がどのようにその展示空間に影響を及ぼしていたか確認していこう。

 分離派が結成された1897年から1905年にクリムトらが脱退するまでのおよそ八年の間に分離派展は23回開催されているが、その第一回は分離派館ではなく、ウィーン市立公園の近傍に位置した造園組合会館で開催された。

 第一回分離派展は分離派にとって、自分たちの設立意図とその意義をウィーン市民に向けて説明するような展示会となった。すなわち分離派が誕生したことで可能となったこと、キュンストラーハウスの下ではできなかった、彼らが必要と考えていたことが何かを示すような展示になっている。その特徴としては、まず展示される作品そのものについては、オーストリア国内の作家の作品と共に、国外作家の作品が一緒に展示されていることが挙げられる。美術史研究者安永麻里絵によれば、展示会において国外作家の作品を展示すること、しかも国内作家の作品と平行して展示することは、分離派の面々が新団体を立ち上げてキュンストラーハウスを脱退した動機に数えられるのだという[1]安永は、クリムト研究者のネーベハイを援用している。以下を参照。安永麻理絵「分離派会館と分離派展」『西洋近代の都市と芸術4 ウィーン――総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、235頁。。ここからは分離派の国際主義的姿勢が窺える。国外で起こった新しい芸術的活動やその所産をいち早く国内に紹介し、国内での芸術家の活動に刺激を与えるとともに、国内作家の作品を同じ空間で展示することで国内作家の作品を国際的な芸術潮流の中に位置づけることでオーストリアの公衆を啓蒙しようともする姿勢が窺える。

 だが、本連載の主眼からすればそれらの作品がどのように展示されたのか、展示された空間についての特徴の方がより重要だろう。先にも述べたように第一回分離派展の開催された時点ではまだ分離派館は落成しておらず、造営組合会館というウィーン市立公園そばの建物の部屋を改装して会場とした。展示室の改装と装飾はヨーゼフ・マリア・オルブリヒとヨーゼフ・ホフマンに委ねられたとされる。

 出来上がった展示会場の特徴として先の安永は、①絵画作品がすべて来訪者の目線の高さに合うように掛けられている、②一人の画家の作品をいくつかまとめて展示する手法が採用されている、③展示室の壁の色は展示された作品の背景となるものとして「木犀草の灰緑色」や「ポンペイの赤」のような独特な色が選ばれた、等を挙げている[2]同前、236頁。

 展示会を画家のプロモートの場として考えたとき、①は作品を見やすくし、②は画家をピックアップし印象付ける上で役立つ試みであると言えるだろう。とりわけ先述のように国外作家の作品と国内作家の作品を並列的に展示する分離派の展示会ではこうした作家別の展示によってさらに技法や作風の違いは際立ち、新しい試みをする作家はより強く印象付けられることになるだろう。

 作品の「見せ方」についての①②のような特徴に対して、壁面の色にこだわった③のような試みは少し趣が異なる。ここでは展示作品ではなくその「背景」としての壁面に意識が向けられているのだが、だとすれば個々の作品もまた「展示会場」という作品の一部をなす構成要素の一つとみなされていることになるだろう。

 もちろんだからといって即、会場に対して作品を従属的なものとみなしていることにはならない。むしろ作品鑑賞の邪魔にならないような壁の色を選んでいるとすれば、空間を作品鑑賞という行為に適した環境に整えようとしていると言うこともできる。 安永はクリムト研究者ネーベハイを参照しつつ、壁の色として「木犀草の灰緑色」や「ポンペイの赤」といった色が選定されたと記している。

 安永の記述からはこうした色の呼び方を分離派のメンバーたち自身が行っていたのかはわからないが、このようなありきたりではない壁の色を慎重に選んだということはうかがい知ることができる。そのような壁面の色選びへのこだわりには何らかの表現的な、あるいは美学的な意図があったとしても不思議ではない。安永は「第五展示室」のしつらえにおいて「部屋の中央に置かれたシャヴァンヌの壁画デザイン」を祭壇に見立てた神殿ともいうべき空間がつくられていることを指摘したうえで、当時の美術評論家ルートヴィヒ・ヘヴェジの発言にも触れながら、展覧会の会場それ自体を一つの芸術作品として現出させようとする「総合芸術の態度」の現れを見ている[3]同前。

 第一回分離派展は5万7千人と言われる来場者を集め、賛否はあれど大きな話題を呼んだ[4]同前、236-237頁。。今回みてきたように、その会場の空間設営にはすでに、展示作品のみならず、展示会場それ自体を一つの芸術作品として仕立てようという総合芸術的傾向の萌芽があった。とはいえこれはいまだ萌芽である事も間違いない。ここには会場が借り物の既存の建物であることが関係しているかもしれない。

 第一回分離派展の開催中に、のちに分離派館として知られることになる建物が定礎された。急ピッチで工事は進められ、同年11月には第二回分離派展の会場として公開され、以降の分離派展の会場となり建物は現在もウィーンの名物の一つとなっている。

 次回はこの自前の展示会場がどのようなものだったのか確認し、これを獲得したことで展示会や展示空間にはどのような違いが表れたか、総合芸術的傾向の行方について今回取り上げた第一回分離派展の場合と比較しつつ検討してみよう。


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関連書籍

1安永は、クリムト研究者のネーベハイを援用している。以下を参照。安永麻理絵「分離派会館と分離派展」『西洋近代の都市と芸術4 ウィーン――総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、235頁。
2同前、236頁。
3同前。
4同前、236-237頁。


執筆者:岸本督司

アイキャッチ画像:グスタフ・クリムト《第1回ウィーン分離派展ポスター》(部分/検閲修正版)1898年


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