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S.T.の夢想日記[第8日]——恰好の良い議論

 哲学的議論には論理的整合性が求められるものである。しかしそれだけでは足りない。恰好良さも求める。哲学的議論は恰好良くなければならない。はたしてダサい知識で満足できる人間がいるだろうか?——いない。人間は恰好の良い理路を求めている。離れたものを引き寄せる目に見えない力「引力」。広がりを持たないにもかかわらずあらゆる物体をその内に抱く「精神」。これまで人類が発見し、人間の知性を導いてきたあらゆる知恵や発想には恰好良さがある。

 一見して哲学史上では、この恰好の良さという要素は理論的整合性に比べて程度の低いものとみなされていたようにも見える。例えばソクラテスと議論していたシミアスは、ソクラテスが論証してみせた想起説[1]人間は生まれる前から知っているとするプラトンの学説。詳しくは、豊川祥隆「事実と虚構[第3回]——プラトンと虚構について(2)」(https://artsandphil.jp/philosophy/toyokawa-y/fact-and-fiction-3/)を参照。と、自分が気に入っていた調和説のどちらを支持するかと迫られ、次のように答える。

だんぜん前の方の説〔想起説〕です、ソクラテス。というのは、私が後ろの方の説を受け入れたのは、証拠があったからではなく、ある種の尤もらしさと恰好の良さのためだったからです。それが、この説が多くの人々に受け入れられている理由でもあるのですが。だが、私は、尤もらしさによって証明を行っているような言論はペテンである、ということをよく知っています。そういう言論に対してはよく警戒しないと、直ぐにすっかり欺かれてしまうのです。しかし、想起と学習についての言論は、受け入れるに値する前提によってかたられたのでした〔…〕[2]プラトン著、岩田靖夫訳『パイドン』岩波書店、1998年、110頁以下(92d)。

 このようにしてシミアスは、自分を含めた世の馬鹿どもは恰好が良いというだけで支持する意見を決めていると分析する。そしてそれよりも証拠を出して論証された説明を受け入れる。たしかにこの点で、このセリフは哲学的議論に格好の良さよりも証拠とそこからの立論を求めているように見える。

 しかしここで見落としてはならないのが、「魂は未知のものを既に知っている」という想起説もやはり恰好の良い説であるという点である。恰好良さと整合性はあれかこれかの関係ではない。ということは、哲学者シミアスは恰好良いだけの説から、証拠ある格好良い説へと乗り換えたに過ぎない。論拠が明示されたからといってダサい説を支持しはじめたわけでは決してない。

 そうした上でこのセリフを見るとどうなるか。まずここで「恰好の良さ」と訳されているギリシャ語εὐπρέπειαの意味は「①立派な外見、美しい姿。②尤もなこと。妥当性;体裁の良さ、尤もらしさ;口実」[3]古川晴風編著『ギリシャ語辞典』大学書林、1989年。であるという。①の意味から上の引用では恰好の良さと訳されたわけだが、その一方で②の意味によって「尤もらしさ」(εἰκός)との重複強調もあるかもしれない。つまり恰好の良さは、証拠が提供するのとは別種の説得力を理屈に与えるのであり、なおかつその説得力は往々にして証拠の提示よりも強力であるということになる。筋を通すこと以外で理屈に納得できる理由がここにある。恰好良さのみに頼るとペテンになるが、恰好良さのない説を受け入れられるものではない。


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関連書籍

プラトン[著]岩田靖夫[訳]『パイドン』岩波書店、1998年

1人間は生まれる前から知っているとするプラトンの学説。詳しくは、豊川祥隆「事実と虚構[第3回]——プラトンと虚構について(2)」(https://artsandphil.jp/philosophy/toyokawa-y/fact-and-fiction-3/)を参照。
2プラトン著、岩田靖夫訳『パイドン』岩波書店、1998年、110頁以下(92d)。
3古川晴風編著『ギリシャ語辞典』大学書林、1989年。


執筆者:S.T.

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