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新しい道の時間、古い道の時間

 新しい道と、昔からある道を見分けることは、そこまで難しくはない。

 新しい道は直線的で、車が通れる幅がある。それは、短い時間でできるだけ遠くに行くという近代人の欲求を満たすためである。それに対して古い道はくねくね曲がっていて、狭い。

 なぜ古い道はくねくねと曲がっているのだろうか。それは、さまざまな地理的状況に抗わずに(抗えずに)道が造られたからである。起伏の激しい日本では、山をならし、川に橋をかけなければ、まっすぐな道は造ることができない。かつてはそんな技術はなかったか、あっても大工事になったから、山を迂回し、川を避け、道を造った。だから、昔からある道は蛇行する。

 くねくねした細い道は、いまや非効率的である。車もすれ違うことができないから不便である。歩道も狭いか、ないことも多いから危険である。そのうち、道沿いの旧家と一緒に拡張工事が行われ、新しい真っ直ぐな道へと造り替えられてしまうかもしれない。

 古地図でかつて集落のあった場所を探して行ってみると、地形に沿って蛇行する細い道を発見することができる。それは、過去数百年のあいだ、その道筋を変えていない。そのあいだ、その道が「進歩」することはなかった。

 そのように変わらないことは、進歩主義的な近代人の眼には「停滞」として映る。しかし、狭いはずの(実際、物理的には狭い)古い道には、どこかホッとする、かえって開放的な空間が広がっていることがある。それはなぜだろうか。

 まずは、単純に空間的な理由が考えられる。古い道は周囲の地形に抵抗せず(技術的に抵抗できず)、周囲の丘や谷などの地形と一体的に造られている。そのため、その一帯をある種の調和した全体として見ることができ、広く感じられる(かつての寺社が、周囲の森や山をも含めて、巨大な景観を形成していたことと同様である)。近代的建造物が私有地の範囲内だけでそのテーマを完結させ、それぞれの私有地が独自のテーマを主張し合った結果、互いが互いを「狭く」感じさせていることとは対照的である。

 しかし何より、古い道は、時間的に開放されている。それは、まずは過去へと開かれており、そこから今度は方向を変えて未来へ開かれている。あるとき、先人がその道を拓いた。その道を今、私たちが管理し、維持し、使用している。この種の継承は、私の死んだ後にも誰かがこの道を使い、彼らの目にも今私が見ているこの同じ景色が映るかもしれないことを予感させる。そこには、もういないはずの人々の気配が「まだ」あり、まだ見ぬ人々の気配が「すでに」ある。古い道は現代人にとって、過去と未来を回復する空間となりうるのである。

 近代的な道は、かつての地形に蓄積されてきたものからの積極的な断絶によって、制約のない「自由」を手に入れた。その道は、自らもまた将来的な「自由」のために、未来から切り離される運命にあることを予感させる。近代的な道からは(あるいはそこを急いで通る人々からも)、いつかまた自分も否定されるのだろうか、という焦燥感が漂う。現代人の享受している近代的自由は、期限切れになることへの恐れという代償を払っている。

 新しい道は、必ずしも効率性、経済性に限定されない理由と共にあった古い道とは異なり、もっぱら効率性という原理で「そこ」に造られたものである。そのため、別にもっと効率的な移動手段があらわれたら廃棄されてしまうのではないか、という不安がある(例えば、日本の経済産業省は2030年代に空飛ぶ車の実用化を目指している[1]「“空飛ぶクルマ”の実現に向けたロードマップ」(経済産業省ホームページ、https://www.meti.go.jp/press/2018/12/20181220007/20181220007.html)2021年4月5日閲覧。 )。近代的な道はその意味で、過去と断絶しており、未来が約束されていない。近代的な道は良くも悪くも、過去と未来から切り離されている。

 新しい道の広く滑らかな(車での移動を最大限に効率化することを意図した)アスファルトは、「その場から離れて目的地に急げ」ということ以外のメッセージを聴くことを困難にしている。新しい道は、そこに佇む人を「不審者」にさせてしまう。近代的な道は、最初から、正しい用途が決まっているのである。

 それに対して、過度の効率性を追求しなかった(しえなかった)古い道は、いたずらに人を急かすことがない。古い道は、道そのものがすでに目的地にもなりうるという多義性を未だに保持している。古い道は、人間の行動可能性を一義的に制限するほどの目的性を持ってはいない。古い道の存在は、近代性の急いた効率的な時間使用とは別種の時間体験を可能にする。地形に阻まれた狭い道で車がすれ違えずに立ち往生するその時間は、近代人を苛立たせる。しかしその同じ時間は、暗くなったら寝るしかなく、山があったら迂回するしかなかった前近代人にとっては、日常的な時間だったのである。

 変わらないこと、佇むことが「停滞」とみなされるようになったのはここ数百年のことである。かつては、変わらないことは永遠性の象徴であった。天体の循環運動の軌道は、すでに到達すべき目的地そのものと見做されていた。変わらないということは、それ以上変わる必要がないということでもあったのである。


関連書籍

ジークムント・バウマン著、森田典正訳、大月書店、2001年

1「“空飛ぶクルマ”の実現に向けたロードマップ」(経済産業省ホームページ、https://www.meti.go.jp/press/2018/12/20181220007/20181220007.html)2021年4月5日閲覧。


執筆者:エイミー・デイ・カミンズ(Amy Dei Cummins)


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