ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《ヴァンルパンソンの浴女》(部分)

S.T.の夢想日記[第5日]——隠された顔を想像する

■理想像の誘惑

 世界三大美女の一人、小野小町。しかしその素顔はあまり描かれることなく、後ろ姿のみが描かれることが多い。このような描き方をすることによって、描き手の技量でモデルの美しさを十分に表現しなくともよいというだけでなく、鑑賞者各人がその隠された顔を想像することによって、それぞれにとっての美人像に抵触することなく美人が表現される。鑑賞者たちは隠された顔に思いを巡らせ、各々勝手に美人像を補完する。そうすることによりその絵は、小野小町の「美人」という設定のおかげで、あらゆる鑑賞者にとって理想的な美人像を提供することができる。

 こうした鑑賞体験をもう少し観察してみよう。すると、そこには次のような特徴が見いだされるのではないだろうか。それは、隠された顔を「想像する」と言ってはいても、実際のところ私は具体的な顔を想像しているわけではないということである。私は漠然と「美人」を想像し、その美しい顔に高揚してはいる。しかしそれは、「隠されているのはあんな顔だろうか、それともこんな顔だろうか」という仕方で様々なサンプルに思いを巡らせるという仕方での想像ではないように思う。

 例えば、美人にはつり目の美人もいればたれ目の美人もいるだろうが、隠された顔はそのどちらなのだろう、などということはまず考えない。そうしたことを気にしだすのはむしろ顔が暴かれた後で、「そっちか…」という感想を抱いたときであるように思われる。隠された顔に関してはそうではなく、「つり目だろうがたれ目だろうが、とにかく美人」を想像している。その美人はつり目でありかつたれ目の美人なのである。顔が隠されている間、その顔に関する想像は具体性を欠き曖昧模糊としているが、「美人」という概念が持つ力によって私の想像は牽引され続ける。

 こうした隠れたものの想像と対照を成すものとして、世阿弥の「秘すれば花、秘せねば花ならず」[1]世阿弥著、野上豊一郎・西尾実校訂『風姿花伝』岩波書店、1958年、105頁。が挙げられるだろう。その意味するところは「さては珍しき事あるべしと思ひ設け(たらん)見物衆の前にては、たとひ珍しき事をするとも、見手の心に、珍しき感はあるべからず」[2]同上104頁。。すごいことをするぞと予告されると、観客は身構えてハードルを上げてしまい、満足しにくくなる。そのため見せる側はその趣向を隠し、ハードルを下げたままにしておいて不意打ちしたほうが、予想以上の成果を観客にもたらすことができるというわけである。

 それに対して、例えばテレビ番組ではその逆のことが起こる。テレビ番組ではしばしばCM前に「このあと美女登場!」というテロップで顔を隠した人間が現れることがある。この場合、視聴者はその美女の顔について想像力たくましくワクワクしながらCMが終わるのを待つ。「美女」という概念によって予め視聴者のハードルを上げておくことで、視聴者はCM中その概念的な美女への憧憬を味わい続ける。そこで想像されている顔は、具体的にはどのような顔かよくわからないが、上がりきったハードルを越えているものである。もちろんこうした場合には期待に叶う具体的な美女を提供することは容易ではなくなるわけだが、番組の制作者にとってはCM中に視聴者が離れていなければそれでよいのである。

 従って、こうした二つはそれぞれの目的によって使い分けられる。即ち、世阿弥の場合には実際に提供される具体的なものが最大限魅力的に見られることが重要であるのに対して、テレビ番組の場合は美女という概念の牽引力こそが重要なのであり、提供される具体的な美女自体は比較的どうでもよい。そして小野小町の場合は言うまでもなく後者である。具体的な顔は隠され続け、鑑賞者は美人概念によって永遠に牽引され続けている。

■想像と可能性の違い

 さて、こうした「美人」という理想や概念によって導かれる想像では、たしかに「美人」の具体的内容は茫漠としている。とはいえそれは、ヒッチコックが言うマクガフィン[3]小説や映画で用いられる、物語を成立させるための動機付け機構のこと。「ヘンに理屈っぽいやつが〈マクガフィン〉の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ」アルフレッド・ヒッチコック/フランソワ・トリュフォー著、山田宏一/蓮實重彦訳『定本 映画術』晶文社、1981年、126頁。ほど空虚なものではないように思われる。隠された顔の想像は具体的な形こそ成してはいないが、決して無内容ではない。私は実際に、美人を想像しているのだ。

 それではここで言われる想像とはどのようなものなのだろうか。注目したいのが、人間に備わる想像という能力は、都合の悪いところを曖昧にしたまま何かを思うことが可能な能力だという点である。通常、例えば絵を描く際などには、人の顔はつり目であると同時にたれ目であることはできない。両者は相矛盾するものだからである。しかし想像においてはつり目でありつつたれ目であるということが可能である。本来この状況は矛盾を含むため成立しえないはずなのだが、人間の想像力はその矛盾に「気付かない」ことができるのである。辻褄が合わずバキバキの認識になるべきところでも、なだらかな夢想は成立している[4]この点に関しては「S.T.の夢想日記[第2日]——眠気・夢・脈絡」も参照。。多くの場合この気付かなさは計画失敗の原因であり歓迎すべきことではないのだが、今回の美人鑑賞などについてはそうではない。想像は正しさを超えて伸び広がる。認識の成立条件を超えて伸び広がる。

 想像において、つり目とたれ目は両立している。こうした状況を説明するために用いられがちなのが、有名な「シュレデインガーの猫」という思考実験である。即ち、50%の確率で死に至る箱の中に猫を入れたとき、猫は可能的に生きているし、可能的に死んでいる。箱を開けて猫の生死が観測されるまではこの二つの可能性は重なり合って存在している、というものである。これを隠された顔の例でいえば、小野小町の目は可能的にはつり目であり、それと同時に可能的にたれ目でもある(あるいは可能的にそれ以外の目である)ということになる。これら複数の可能性が、決して観測されないという条件の下に、同時に存在し続けているのが隠された顔だ、というのがこの観点からの説明である。

 しかし、はたして隠された顔に対する想像はこのような重なり合う可能性として説明されるべきなのだろうか。もちろん鑑賞者はそのような無限の可能性として小野小町の顔を予想しているのだと解釈することは可能であるが、こうした説明は想像に特有な曖昧さを取り逃がしてしまっているのではないだろうか。この説明では無数にある可能性の一つ一つはそれぞれ整合的に成立していなければならず、もし一つの可能性の中に矛盾が生じているならば、それは可能性として成立しないはずである。即ち、「ある人物がつり目でもたれ目でもありうる」は無矛盾的に成立するが、「ある人物がつり目でありつつたれ目でありうる」という可能性は成立しえないだろう。それに対して「美人」ということを聞きつけて行われる想像とは、むしろその不可能なあり方を曖昧に思っているのである。その成立不可能な顔は、あらゆる可能性を通覧したとしても見つけることのできない「美人」の想像なのである。

■矛盾に気付かないでいられる原理

 しかし当然ながら、端的に不可能なものは不可能である。ならば、どのようにして想像はその対象を成立不可能にしている矛盾に気付かないでいられるのだろうか。この点について以下のように考えることができるかもしれない。例えば、漫画をアニメ化するときなどにキャラクターをデザインする作業が行われる。これは二次元的な漫画の絵は必ずしも三次元的に正しい・辻褄の合う形をしていないために必要となる工程である。キャラクターが振り返る動作をするときなどにこうした二次元では気付かれなかった造形の歪みが露見する。そのため二次元の絵を三次元的に辻褄の合う形に再形成する必要があるのだ。ところがこれを逆から言うならば、三次元的には明らかに歪んでいる形でも、二次元では気にならないということになる。そして更に、絵という二次元的な具体物に落とし込まれる以前の、想像という物質的広がりのない一次元的領域では、二次元的に矛盾するはずの要素が気付かれることなく、一つの想像が成立しうる。もちろんそれは絵に起こそうとした場合には成立不可能な歪なものであり、再形成を必要とする正しくないものではある。しかし三次元的には歪な漫画の絵が人間生活で充分に通用するのと同様、具体化するには歪であろうとも想像の中で問題なく成立し、機能するのが想像されたものであるということになる。

 以上のようにして美人の隠された顔は、様々な要素が一次元的にのみ成立する仕方で想像されている。それは二次元的・三次元的な正しさを、即ち、視覚的認識に基づいた意味理解を蹂躙する。事程左様に私は理想的な美人に正しさを求めはしない。


関連書籍

世阿弥[著]、野上豊一郎/西尾実[校訂]『風姿花伝』、1958年
アルフレッド・ヒッチコック/フランソワ・トリュフォー[著]、山田宏一/蓮實重彦[訳]、晶文社、1981年

1世阿弥著、野上豊一郎・西尾実校訂『風姿花伝』岩波書店、1958年、105頁。
2同上104頁。
3小説や映画で用いられる、物語を成立させるための動機付け機構のこと。「ヘンに理屈っぽいやつが〈マクガフィン〉の内容や真相を解明しようとしたところで、なにもありはしないんだよ」アルフレッド・ヒッチコック/フランソワ・トリュフォー著、山田宏一/蓮實重彦訳『定本 映画術』晶文社、1981年、126頁。
4この点に関しては「S.T.の夢想日記[第2日]——眠気・夢・脈絡」も参照。


執筆者:S.T.

アイキャッチ画像:ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル《ヴァルパンソンの浴女》1808年(部分)