夜の先斗町

好漢——下村良之介著『題名に困った本』(私家版1983年)『単眼複眼』(東方出版1993年)


曳光えいこうは、轟き、隕ちた。フォーブ、ダダ、シュール、アブストレー……一切のエコールが砕け、今怒号と暗黒の渦巻く巷で、藝術は明日の蒼空を摑もうとみもだえている。吾々は日本画壇の退嬰的アナクロニズムに対してここに宣言する。目玉をえぐりとれ。四畳半の陰影にかすんだ視覚をすてて、社会の現実を凝視する知性と、意欲に燃えた目を養おう。感傷を踏みにじれ。因習の殿堂を破壊して、広い科学的文化的視野から伝統の力強い生命を発掘し、世界的地盤から古典を再検討しよう。温床をぶち壊せ。隠然たる重圧の牙城をなす封建的ギルド機構を打破して、自由な芸術の芽生えを育てよう。執拗な因習の磐石には幾多の革命運動も蟷螂とうろうの斧の如くつぶされねばならなかった。まして破壊から更に新しい絵画芸術を建設するにはもとより激浪の前途を覚悟せねばならない。しかし芸術家の若き世代にとってこの前進以外に生き甲斐はありえないのだ。パンリアルはこの欠陥と障壁をのりこえ敢えて新しい芸術の歩みの礎石とならんために結成された。吾々は従来の絵画芸術に凡ゆる角度から総合的批判を加え、常に社会生活の生成発展との深い関連の自覚の上に立ち、その生活感情の激しい内燃から、科学的実験的方法によって、絵画におけるリアリテを徹底的に追求しようとする。したがってモティーフ、マチエールにおいても無自覚な伝襲によって宿命ずけママられた限界を撤廃し、膠彩こうさい芸術の可能性を拡充し具体化しようと努力する。この目的達成のために吾々は絵画ないし社会の封建的精神と機構に確然と反対し、人類理想のためあらゆる前衛的運動と密接に協力してゆく覚悟である。

(パンリアル宣言文 1949年⦅一部旧漢字を新漢字へ変更⦆)


 2020年春、日本でも新型コロナウイルスが騒がれ始めたなか、1949年から続いたパンリアル美術協会(以下パンリアルと略称)が解散した。同協会はにかわによる新たな絵画表現を目指し、現在の京都市立芸術大学⦅当時は京都市立絵画専門学校(1909~45)・京都市立美術専門学校(1945~50)⦆の日本画科卒業生11名を中心に、京都大学文学部の美学講師や、学生らとともに結成された。その活動は70年間で77回もの展覧会を開催し、同じく関西を中心に活動した具体美術協会⦅以下具体と略称⦆(1954~1972)と並び、戦後の日本を代表する前衛美術グループの双璧と位置付けられることもある[1]『没後10年下村良之介展』図録、京都国立近代美術館、2008年、20頁。

 しかし約70年も前の冒頭のパンリアル宣言文が、未だにそのまま現在に引き継いでもよいように思うのは私だけだろうか。日本画の転位は達成されなかったのだろうか。眞島竜夫(現代美術作家)は日本画の転位について次のように語っている。「「転位」と「変革」は似て非なるものだ。日本画は状況に応じて変容を重ねてきたのであって、言ってみれば日本画の歴史とは、変革の歴史でもある。転位を変革というプラクティカルな問題に置き換えることで、日本画はいまでも日本画であり続けている。そう考えると、そもそも「日本画」の転位は可能なのか、そして、それは本当に必要なのかという、根本的な疑問さえ生じかねない。」(「日本画の転位」とは北澤憲昭氏による「日本画が表現体系において位置を転ずることで『日本画』という枠組そのものが転ずる事態のこと」である[2]『「日本画」——内と外のあいだで シンポジウム〈転位する「日本画」〉記録集』ブリュッケ 、2004年、101頁。。)

 私はリアルタイムでパンリアルの活動を見てきた世代ではないため、パンリアルの設立当時の熱気や、その後の日本画における影響等を肌で感じたことはない。しかし美術館や、図録などで彼らの作品に出合った時、驚きとともに良い意味でこれが日本画なのか、という思いを抱かせる作品は多い。

 ただ個人的にパンリアルを具体と対で扱うことには反対したい。誤解のないようにお断りしておくが、私は決してこの2つの前衛美術グループに優劣をつけようと思っているわけではない。油彩というメディウムを主体とする具体に対し、膠による表現を主体とするパンリアルという対立軸を設けることに意味がないと思っている。そもそも具体は油彩による絵画表現だけのグループではない。また膠といういちメディウムを特別視することは、現在においても膠を使って制作される日本画に特殊な位置づけを与え(絵画である前に「日本画」であるというエクスキューズを与えていると言ってもよい)、より大きな領域である絵画から切り離して考えることを助長している。メディウムでの対立軸を設けることが結果として今日パンリアルの作家・作品を「日本画」のなかに回収してしまったように感じる。少なくともパンリアル設立当時、出品作家らの作品は当時の日本画の範疇からは完全に抜け出ていた。そもそも宣言文に明記されているように、あくまでも膠彩芸術であり、新しい時代にふさわしい日本画を描いていたわけではない。それは同じく戦後の価値観の変容と、当時流布した日本画滅亡論に向き合いパンリアルの前年に設立された創造美術(現在の創画会)の綱領にも「我々は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」とあり、日本画の転位を目指していた部分では志を同じくしていた(ただし今日の創画展では日本画と記している)。

 さまざまなところで論じられているのでこれ以上深堀するつもりはないが、描いた作家と作品を、日本画家、日本画とするかどうかは、画材、作家の出自(具体的には大学で日本画科に在籍しているか如何や、子弟制度等)、所属する団体、作品を発表する場、観衆、市場など様々な要素をもとに曖昧な線引きがなされてきた。今日パンリアルとそこに参加した作家達が日本画の範疇に入っていることは、けっして作品の力不足ではなく、作品、作家を取り巻く環境、制度によるところが大きかったのではないかということをあらためてここで申し上げたい。

 さて前置きがずいぶんと長くなってしまったが、そんなパンリアルの第1回目から、創立会員のなかでは最後となる1998年まで出品を続けたのが下村良之介(1923~1998)である。京都と大阪を結ぶ京阪電気鉄道(通称京阪電車)の出町柳駅構内にパブリックビューイングとして彼の作品が設置されているので、ご覧になったことがある方も多いかもしれないが、海外展に出品した際には浮彫作品として彫刻のジャンルに展示されたこともある彼の作品を、レリーフや、陶板だと思っている方もいるかもしれない。紙粘土を使った独自の表現手法や、終生所属したパンリアルと、前述した日本画の制度論・可能性をめぐる展覧会等でその作品が展示される機会が比較的多い作家である。ただ「日本画の前衛」、「日本画の抽象」、「アウトサイダー」、「反骨の画人」など彼と彼の絵画作品はどうしてもわかりやすい枕詞や、同名の展覧会等のコンセプトにはまりすぎている側面がある。結果として、彼の絵画以外の作品や魅力を見逃していることに繋がってしまっているように感じる。

 では彼の絵画以外の魅力は何かというと、ズバリ人間力ということに尽きると思う。京都の酒場先斗町で様々な人々と交流を深めていき、常にその場の中心に座っていたというその人間的魅力。大酒飲みで、お祭り好き。絵画に彫刻、焼き物、版画、家の設計や墓石のデザイン、舞台装置、さまざまな分野で縦横無人な活躍を残した。そんな下村の魅力を再発見できるきっかけとして彼の著書『題名に困った本』、『単眼複眼』を紹介したい。2冊とも様々なところに下村が寄稿したエッセイを寄せ集めて構成されている。一つ一つのトピックは決して長くはなく、内容も芸術談に限らず、さまざまな友人との交遊録、旅行記、京都の酒場の紹介など多岐にわたる。それらの片言隻句のなかには鋭く豊かな箇所がいくつもあり、ぐいぐいと読み進ませてくれる。エッセイのなかには、書かれた当時の京都の市井の描写、それも極めて個人的な付き合いの濃い人々達が生き生きと書き出されている。居酒屋の女将さん、陶芸家、版画家、大学教授、医者、読み終わった後には彼が仲間達と通った京都の先斗町に繰り出したくなる一冊でもある。


関連書籍

下村良之介[著]、東方出版、1993年
下村良之介[絵]、舟崎克彦[文]、「京の絵本」刊行委員会、改訂版、1999年

1『没後10年下村良之介展』図録、京都国立近代美術館、2008年、20頁。
2『「日本画」——内と外のあいだで シンポジウム〈転位する「日本画」〉記録集』ブリュッケ 、2004年、101頁。


執筆者:戸田淳也(日本画家)
アイキャッチ画像:夜の先斗町(京都市中京区)