土田麦僊《舞妓》1935年

芸術家の子供——『回想の父 土田麦僊』辻鏡子著 京都書院 1984年


芸術家には、子供はいらない。
家庭というものが、芸術家の神経には重荷である。
父を眺めながら、私はよくこう思った。
(本文17頁)


 2021年5月24日、内閣官房参与の高橋洋一嘉悦大教授の退職が発表された。高橋氏は同月9日に国内の新型コロナウイルス感染状況について「この程度のさざ波。これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイッターに投稿。この投稿に対し多くの批判が寄せられていた。高橋氏の発言の元となったジョン・ホプキンス大学の「100万人あたりの新規感染者を国別に示したもの」の数字を見ると、欧米と比較すれば日本の感染者数は低い。それでもNHKのまとめによる同日までの日本における新型コロナウイルスの累計死者数は10000人を超えており、緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が各地で適用され、国民の生活に制限が課されているなか、不適切な発言であった。

 およそ今から100年前の1918年、スペイン風邪によるパンデミックが世界中で猛威をふるった。日本では25万人以上の人が亡くなっている。この数字は誰が見てもさざ波ではない。この1年新型コロナウイルスの自粛になれた今の感覚では信じられないことだが、当時はそんな中でも美術館は開館し、展覧会は開催されていた。近代日本画史において数々の名作を残した国画創作協会(以後国展)の第1回展が東京日本橋の白木屋で開催されたのも1918年だった。

 当時の美術展覧会は、現在の公募形式の展覧会のように、出品者から一定の金額を徴収し、それを元手に運営をしていくというものではなかった。国展の開催にかかわる費用は、その大部分を創立会員5名⦅厳密にいえば5名の創立会員、土田麦僊(1887‐1936)、小野竹喬1889‐1979)、榊原紫峰(1887‐1971)、村上華岳(1888‐1939)、野長瀬晩夏(1889‐1964)とそのパトロン達⦆が負担していた。ちなみに創立会員らは当時まだ30代前半の作家たちばかりだった。彼らを支えたパトロン達の景気の良さは第1次世界大戦において漁夫の利を得た日本の好景気が美術界をも巻き込んでいたことが背景にある。

 国展のリーダー格と目される土田麦僊は絵を描くために万金を惜しまなかったといわれている。絵の具、支持体である絹、モデルなど何についても凝り性で熱心であった。そしてそんな麦僊を何人ものパトロン達が支えた。麦僊はパトロン達と非常にこまめに手紙のやりとりをしている。内容は展覧会批評や、作品の構想、金の催促など多岐にわたる。パトロンの一人であった野村一志の元にはじつに270通を超える麦僊からの書簡類が保管されている。麦僊は当時の日本画家としては(日本人としても)珍しく1921年から1923年まで上海、香港、カイロなどにたちより、フランスへ遊歴の旅にでている。パリではルノアール、クールベ、ドラクロア、ゴーギャン、ルソー、セザンヌなど小品ながら26点もの作品を購入している。大正七年当時の初任給は小学校教員が十二~二十円、巡査十八円、高等文官試験合格の高等官にあっても七十円だったという。麦僊の手紙によると、当時のパリで日本人が生活するには「充分倹約すれば二百五十円でやれぬ事はない」という状態だったらしいが、当時の日本人の感覚からしたら大変な額である。パトロン達の経済力の高さを示すエピソードの一つだと思う[1]『日本画——繚乱の季節』田中日佐夫著、美術公論社、263頁抜粋。

 パトロン以外にも芸術家を支援してくれる人間がいる。たいていの場合それは芸術家の家族であることが多く、親、配偶者、親類など、芸術家の身近にいて、芸術家が制作に専念できるよう生活の雑事を助けてくれる。日本画家で女性として初めて文化勲章を授与された上村松園が著書『青眉抄』(1943年)のなかで、自身の母について「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、それと戦えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである。」[2]『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』上村松園著、求龍堂、135頁。と語っているのは有名な言葉である。麦僊にしても妻・千代が絵の具をといたり、にかわを炊いたり、絹をはったりとその制作を助けている。

 それに引き換え、芸術家にとって自身の子供というのは、非常に微妙な関係にならざるを得ない。作品のモデルとして制作活動に寄与することはあっても、パトロンのように経済的な支援をしてくれるわけではないし、子供が幼いときは芸術家に代わって身の回りの雑事を助けてくれるわけでもない。先に挙げた上村松園の場合は自身の一人息子である日本画家上村松篁の子育てを専ら母に任せっきりだったようだ。松篁は著書『私の履歴書』のなかで「母(松園)は朝から晩まで一心不乱に絵を描いている様子だった。子供の私は二階(松園の画室)へ上がることを禁じられていた。(一部略)いつも二階で仕事をしている母(松園)のことを、幼い私は「二階のお母さん」と呼んでいた。祖母と伯母が家事を担当していて、朝、昼、晩と食事ができるたびに母(松園)呼びに行くのが私の役目だった。」[3]『私の履歴書——日本画の巨匠 上村松篁 東山魁夷 加山又造 平山郁夫』日経ビジネス文庫、15頁。混乱を避けるため一部に括弧で補足。と語っており、母である松園が画業と家庭との両立をしていないことを示している。

 今回取り上げる『回想の父 土田麦僊』は麦僊の長女・辻鏡子によるエッセィである。内容は父・麦僊の臨終にはじまり、作品制作のエピソードや、家族のこと、国展のこと、批評家のことなど多岐にわたるが、非常に明瞭な文章で読みやすい一冊である。ここでポイントとなるのは子供ならではの視点である。麦僊の妻・千代は先にもふれたが、麦僊のよき助手であった。それに対して鏡子は、子供だからこその距離感で麦僊の制作風景を描写している。それはパトロン達や批評家にない視点である。

 日本画家を父に持つ娘が書いた著書は他にもいくつかあるが[4]『父 髙山辰雄』高山由紀子著、角川書店、2011年、『父の画室の隅で』川端紀美子著、新樹社、1962年などが有名。、今回『回想の父 土田麦僊』を選んだのにはいくつか理由がある。まず本文中で言及されている作品を我々が実際に目にする機会が多いという点が挙げられる。京都の美術館に限らず、現在でも人気作家である麦僊の作品が展示される機会は多い。また近年、国展関連の展覧会が各地で開催されており、益々その作品を鑑賞する機会も多いと思われる。次に、著者である辻鏡子自身の人生が非常に興味深い。父・土田麦僊は日本画家、母・千代はもともと京都祇園の舞子、妹・晨子は外国賓客の接遇を長く務めた才女である。フォード大統領、フセイン・ヨルダン国王、エリザベス英国女王など接した外国貴賓は大変な数にのぼる。辻鏡子自身も外国語に興味をもちシャガールのような画家や、ルーヴル美術館やメトロポリタン美術館の関係者など美術関係の人の案内役をつとめた。当然日本美術に限らず古今東西の美術・芸術作品に触れる機会が多くあったものと推察される。そして彼女の息子はフランスにわたり、偶然にも彼には祖父にあたる麦僊のフランスでの足跡を見つけていくこととなる。

 芸術家の身内が残した書籍はその芸術家を知る手がかり程度に扱われることが多い。また芸術作品を知った上で、それらの書籍に興味を持ち、読んでみることが多いと思われるが、今回紹介した『回想の父 土田麦僊』は読み物としても面白く、土田麦僊の作品を知らない、見たことがない方にもお勧めしたい一冊である。


関連書籍

1『日本画——繚乱の季節』田中日佐夫著、美術公論社、263頁抜粋。
2『上村松園全随筆集 青眉抄・青眉抄その後』上村松園著、求龍堂、135頁。
3『私の履歴書——日本画の巨匠 上村松篁 東山魁夷 加山又造 平山郁夫』日経ビジネス文庫、15頁。混乱を避けるため一部に括弧で補足。
4『父 髙山辰雄』高山由紀子著、角川書店、2011年、『父の画室の隅で』川端紀美子著、新樹社、1962年などが有名。


執筆者:戸田淳也(日本画家)

アイキャッチ画像:土田麦僊《舞妓》(部分)1935年


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