ピーテル・ブリューゲル(父)《バベルの塔》1563年

S.T.の夢想日記[第6日]——信じることなく願うぎこちなさ

 あまりに仕事のできる人を見ていると、「この人はアンドロイドなのかな?」と思うことがある。ある人物が次々と生じる不測の事態を鮮やかに解決していくのを見るにつれ、そうした人物やその状況が作り物であるような気がしてくる。先だってはベルクソンの笑い分析などを引き合いに出して、ぎこちなさを機械的で非人間的、なめらかに動くことを人間的で現実的、と考えた[1]「S.T.の夢想日記[第3日]——認識伸ばしごっこ」(https://artsandphil.jp/philosophy/s-t/playing-with-recognition/)および「[第4日]——笑いと恐怖」(https://artsandphil.jp/philosophy/s-t/imaginary-diary-4/)を参照。。しかし他方でその逆、ぎこちなさこそが人間味をもたらすという側面も同時にあるだろう。そうした人間に特有なぎこちなさとして、「信じることと願うことのずれ」を考えてみる。

 血液型占いというものがある[2] 血液型占いが人間を機械化するものであるということの証明として、根無一信「嘉門達夫、ライプニッツ、ソクラテス——人間の物質機械化に抗する(原因論①)」(https://artsandphil.jp/philosophy/nemu-k/kamon-tatsuo-leibniz-socrates-theory-of-causation-1/)を参照。。それは生まれつきの血液型でその人の性格が分かるというものであり、誰もが知る有名な話である。しかし人がこの血液型占いを口にするときでも、だからといってそれを信じているわけではないだろう。少なくとも、就職に際して「君はA型ではないからウチの細かい作業は任せられないな」と言われたらその採用担当者は正気ではない、と思うほどには信じていない。信じてはいないのだが、なぜだか血液型占いは人々の口をついて出てくる。

 その理由は、もしかしたら世界や人間が人々にとって複雑すぎるからなのかもしれない。人間の性格というものは時と場合によっていかようにも変化して予測しづらいものだが、血液型占いによれば人間の行動はたった四つのパターンに絞られ、しかも血液型と同じく生まれつき変化しないということになる。そのため、もし血液型占いの言うことに従うのであれば、世の中はよりシンプルになり、人間でも理解しやすいものになる。そしてこうした単純化ないしレッテル張りされた世界は複雑にものを考えたくない人間という生き物にとって都合がよいのだろう。ただし上述の通り、こうした場合でも人々は血液型占いなど信じてはいない。都合よく考えることは信じているということとは別である。人間は、信じてもいないものに願いを託し、頼ることができる。そうではないと分かりつつ、「そうだといいな」に頼ってしまうのが人間の性である。きっとそうであるに違いない。

 しかし、程度の差はあれ人間誰しもがこうした振る舞いをしているとすら言えるかもしれない[3]人間は一般にその存在を信じてはいないものに関して、都合がよい(有用性がある)からそれがあたかも存在するかのように振る舞っているのだ、とする立場は「かのようにの哲学」として展開されている。Hans Vaihinger: Die Philosophie des Als Ob. System der theoretischen, praktischen und religiösen Fiktionen der Menschheit auf Grund eines idealistischen Positivismus; mit einem Anhang über Kant und Nietzsche. Reuther & Reichard, Berlin, 1911.また同署の内容を小説に落とし込んだものとして、森鴎外「かのように」(『阿部一族・舞姫』、新潮社、1968年)がある。。人間は世界の出来事を言葉で語る。血液型より種類は多いが、世界の在り様は自分の持っている言葉で言い表せるものであってほしいと願っている。「私は何も知らないということを分かっている」と言いたいし、「自分の意識を疑っているときは、私の意識は存在している」と言いたい。そうした言明が何か意味を持っていて、自分はそれを理解していると思いたい。だがこうしたことは実のところ、手前勝手な理屈を世界に押し付けているに過ぎない。人間は世界を言葉で言い表せるという根拠があって言葉で語っているのではなく、言い表せればいいなという願望を込めて言葉を用いた表現をしているのではないか。人間は皆、多少なりとも甘ったれて生きている。きっとそうであるに違いない。

 こうした「希望的観測に基づく甘ちゃん特有の思考」は、ある意味ではぎこちないと言えるだろう。即ち、直面している問題に対してその解決法がちぐはぐであるという意味で、滑稽なぎこちなさがある。世界を理解・体験するという人生の課題に対して、どれだけ血液型占いに頼って人間の性格を画一化しようとも、予想外の行動に直面することは避けられない。しかし他方で、「信じていないものであってほしいと願う」という出来事は論理的に成立不可能というわけではないという意味でならば、それは決して矛盾しているわけではない。論旨は破綻しているが論理は不整合になっていないのである。言い換えれば、目的論的には破綻しているが、論理学的な不整合はない。以上のようにして、信じてもいないことを願うというこの行動を、人間的なぎこちなさと見ることができるだろう。きっとそうであるに違いない。


関連書籍

1「S.T.の夢想日記[第3日]——認識伸ばしごっこ」(https://artsandphil.jp/philosophy/s-t/playing-with-recognition/)および「[第4日]——笑いと恐怖」(https://artsandphil.jp/philosophy/s-t/imaginary-diary-4/)を参照。
2 血液型占いが人間を機械化するものであるということの証明として、根無一信「嘉門達夫、ライプニッツ、ソクラテス——人間の物質機械化に抗する(原因論①)」(https://artsandphil.jp/philosophy/nemu-k/kamon-tatsuo-leibniz-socrates-theory-of-causation-1/)を参照。
3人間は一般にその存在を信じてはいないものに関して、都合がよい(有用性がある)からそれがあたかも存在するかのように振る舞っているのだ、とする立場は「かのようにの哲学」として展開されている。Hans Vaihinger: Die Philosophie des Als Ob. System der theoretischen, praktischen und religiösen Fiktionen der Menschheit auf Grund eines idealistischen Positivismus; mit einem Anhang über Kant und Nietzsche. Reuther & Reichard, Berlin, 1911.また同署の内容を小説に落とし込んだものとして、森鴎外「かのように」(『阿部一族・舞姫』、新潮社、1968年)がある。


執筆者:S.T.

アイキャッチ画像:ピーテル・ブリューゲル(父)《バベルの塔》1563年


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