万国博覧会、1893年、シカゴ

近代建築事始め[第5回]——アドルフ・ロースとヨーゼフ・ホフマン

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 アドルフ・ロースという名前については、この一連の文章の最初の回で既にふれたが、それ以来ここまではしまいっぱなしだった。だがそろそろ出てきていただくことにしよう。というのは、ちょうどホフマンの名前も出てきたからである。奇しくも、でもなく単なる歴史的事実なのだが、二人が世に出てきてウィーンで名が知られるようになった時期はほぼ同時である。それだけでなく、二人の前半生の歩みには、大小さまざまな類似点があるのである。もちろん数え切れないほどの相違点もあるのだが。

 まずは伝記的な事実から始めよう[1]本稿のロースとホフマンの経歴は、アドルフ・ロースの論集『にもかかわらず』(‎加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、みすず書房、2015年)に所収の年譜(307-316頁)を参考にして記述した。。アドルフ・ロースとヨーゼフ・ホフマンは、ともに1870年にオーストリア=ハンガリー帝国モラヴィア地方、現在のチェコ共和国領内で生まれている。生まれた日付は少し違う。ロースが12月10日、ホフマンが12月15日である。生まれた場所も少し違う。ロースが生まれたのはブルノ市、ホフマンはブルトニツェという町であり、2021年現在、googleマップで調べた限りでは、この二つの町は70kmほど隔たっている。とはいえ、両者の生誕は時間的にも距離的にもとても近い。地球の大きさと人類の歴史の長さを考えれば奇跡的なほどだ。もっとも、 同時代に同じ地域で活躍した二人を選び出しておきながら、その生まれの近さを云々するとしたらこれは論点先取に近い話となってしまうだろう。だからここでは事実を確認するにとどめよう。この二人はごく近い時期に、同じ国の同じ地方の互いに近い距離にある町に生まれ育った。

 では、二人の出会いはいつ、どこで果たされたのだろう。彼らがどのように知り合いとなったのか、それを示す資料をあいにく私は持ち合わせていない。ただし、彼らが同時期にブルノの職業訓練学校の建築工芸科に在籍していたことは知られており、その時期に知り合っていた可能性は排除できない。彼らがたがいを認識していたにせよいなかったにせよ、二人はしばらく別々の道を歩む。

 ロースは19歳になる1889年にドレスデンの王立工科大にて聴講生としてカール・ヴァイスバッハに師事し建築を学ぶ。その後一年間の志願兵生活を経て、ウィーンの造形美術アカデミーに入学。しかし翌年にはドレスデンの王立工科大に戻っている。このとんぼ返りがどのような心境の、あるいは状況の変化によるものかは推測するほかないが、後年遺憾なく発揮されるロースのウィーンという都市に対する鋭い批判と観察のまなざしがこの時期から養い続けられたものであることは間違いないだろう。ちなみに当時、ウィーンのカフェにはのちにロースと生涯にわたる交友を持つことになる二人の作家、ペーター・アルテンベルクとカール・クラウスが出入りしていたのだが、ロースとの交流がこの時点ですでにあったのか、残念ながら私は知らない。この後ロースは1893年から1895年にかけてアメリカに滞在し、フィラデルフィアの叔父を頼りつつシカゴで行われた万国博覧会を見学し、その後はニューヨークで自活している。この時期の生活の中で得られた経験や観察をもとに、ロースはニューヨークという近代的な大都市を一つのモデルとして、ウィーンの壮麗な装飾の施された歴史主義建築の街並みに隠された、豊かさとは程遠く西洋の文明から取り残されつつある実態を鋭く暴き出す視点を獲得し、これは帰国後に遺憾なく発揮されることになる。

 一方のホフマンは1892年にウィーン造形美術アカデミーに入学し、カール・フォン・ハーゼナウアーのもとで建築を学ぶ。1894年のハーゼナウアーの死後は後任のヴァーグナーに師事し、書き上げた卒業論文によりローマ賞を受賞し、イタリア留学を果たしている。帰国後にヴァーグナーのアトリエに出入りし、若い芸術家仲間と分離派を立ち上げたということは前回までで述べたとおりである。

 ロースは1896年にイギリス経由で帰国し、二度目の兵役に就く。この時、軍での適性検査の際に右耳の難聴が公式に記録されている。その後、ウィーンにて、カール・マイレーダーの建築事務所に職を得る。

 こうして、ホフマンとロースの二人はともに、ウィーンにて建築家として歩み始めた[2]二人とも、建築家であると同時に室内装飾や家具のデザイナーとしても活動していた。。ホフマンが分離派の中心メンバーとして名が知られ始めるのとほぼ同時期にロースはウィーンの雑誌や新聞にて記事や論考を発表し始める。その雑誌の中の一つに、分離派が発行する機関誌『ウェル・サクルム(聖なる春)』も含まれていた。こうして、ウィーンにて頭角を現し始めた二人は、分離派という場を媒介にして接触を果たす。

 そしてそれが決裂の始まりだった。ロースからホフマンへの、生涯にわたる苛烈な攻撃が始まるのである。

(続く)


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関連書籍

アドルフ・ロース[著]、鈴木了二/中谷礼仁[監修]、加藤淳[訳]、みすず書房、2015年

1本稿のロースとホフマンの経歴は、アドルフ・ロースの論集『にもかかわらず』(‎加藤淳訳、中谷礼仁・鈴木了二監修、みすず書房、2015年)に所収の年譜(307-316頁)を参考にして記述した。
2二人とも、建築家であると同時に室内装飾や家具のデザイナーとしても活動していた。


執筆者:岸本督司


アイキャッチ画像:ロースの訪れたとされる1893年のシカゴ万博において見本市会場となったジャクソンパークに臨む「共和国の像」(背中側)。本部ビルが奥のほうに見えている。
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Looking_West_From_Peristyle,_Court_of_Honor_and_Grand_Basin,_1893.jpg


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