クーデルカ アイキャッチ

意味の専制を挫く——ヨゼフ・クーデルカ写真集『Chaos』(1999年)

 社会主義体制下のチェコスロヴァキアにおいて、1968年に生じた民主化運動「プラハの春」。この変革の波に対し、ワルシャワ条約機構軍が直接介入による牽制を行ったのが、チェコ事件だ。その渦中に身を置き、兵士たちと相対する市民の姿を収めた写真により、ロバート・キャパ賞を受賞した、伝説的写真家がいる。ヨゼフ・クーデルカ(1938 年チェコスロヴァキア生まれ)。後に、magnumと呼ばれる世界初のフォトエージェンシーに所属し、今日に至るまで活動を続けているこの写真家は、とりわけキャリアの初期を印づけるジャーナリスティックな写真群のみならず、政治的主題とは明白な関連を持たないフォルマリスティックな写真群も大量に残している。後者の中で、出色なのが『Chaos』と題された写真集だ。そこに立ち顕れる、クーデルカに特徴的な身振りについて、二三、考察してみたい。


参考動画

Books save Humanity, ‘Josef koudelka Chaos by Phaidon’


 砲射の痕跡が生々しく刻まれた廃墟の壁、鉄屑の夥しい集積、川筋が掘り込まれた山肌、トラックの轍が幾重にも刻まれた荒野の地表面。この写真集を開いてまもなく、観者は、一体何がどのような基準で被写体として選択されているのか、当惑せざるを得ないだろう。人工物が朽ちて、当初の規矩を失い、あたかも自然に還元されてゆくようなうつろいを写し留めているタイプの写真群もあれば、地表を痛々しく剥き出しにしている荒廃した山地を空撮したものなども並置されている。何が写されているのか、その基準を詳らかにすることは全く容易でない。一方で、作家の画作りの特性は顕著だ。

 現前する事象に幾何的形象の胚胎を嗅ぎ取るやいなや、それらを、画面が数学的均衡を獲得するに適うポジションへ配置する。それがクーデルカに特徴的な、画像生成のシンタクスだ。事物は、円形・矩形等の幾何的形象の集合へとディフォルムされ、さらにフレーミングによって反復・対称を孕んだ構造性の元に位置づけられる。

 螺旋階段を、踊り場上方から真下に見下ろして撮られた、一枚の写真を見てみよう(以下のリンク先の画像を参照)。
https://br.pinterest.com/pin/390265123931848255/

 階段の各踏み段は螺旋状に配置された矩形へ、手すりは矩形の反復的展開のベクトルを指し示す指標として抽象化され、それらを名指す言葉との紐帯は剥ぎ取られようとしている。この被写体の抽象化の作用は、まず、画像を構成する各要素の関係性から、パースペクティブを奪い取る機制として現れる。同じ画像の画面右隅に位置する扉に今一度目を移そう。その扉の上-下(上方から撮られたこの写真においては上-下は深さの指標である)が、パノラマレンズの収差によって左-右(画像表面と平行に)に変換され、深さが排除される兆しを見せているのだ。

 初期の写真集『Exile』にも、同様の志向を見て取れる(以下のリンク先の画像を参照)。
https://www.magnumphotos.com/newsroom/society/josef-koudelka-exiles/attachment/par65512/ (Josef Koudelka | Exiles Italy. 1982. ©Josef Koudelka | Magnum Photos)

 農地の傍らに通された高架を走る電車の車窓から撮られた一枚の写真。画面右手前から低い角度で差す光が、巨大な高架の影を農地に投げかけている。この影は、それが投影されている地表面が画像平面とほぼ並行になるような視点下に置かれること―画像平面との隙のない接着により奥行きを奪われること―により、アーチ型の反復構造(半円と長方形を組み合わせた形象が連続するベクトル)を示す指標として、それは顕わにされるのだ。画面奥=画面右上へ向かう電車の進行は、画像表面に認められるブレによって確認できるが、それが示す画面奥へ眼差しを誘うほどの効果は生じていない。むしろ、ハイスピードのシャッターによって、画面奥を支持するブレは最小限に抑えられ、先の視点選択により得られるパースペクティブの削減はより補強されているのである。

 平面へ圧縮された幾何的形象の複合体としての写真。ただし、あくまで、最終的にそこで強調されるのは面と面のあいだの境界、すなわち線である。幾何的形象が重畳・交差の繰り返しの中で、断片的な表意文字とでも言い得る、一見可読性を帯びたイメージを織り成してゆく。我々は、それらに不可避的に遠い遠い集合的記憶の参照を求められる、つまり象形文字の始原体を視た眼差しの記憶を重ねるのだ。そして、ついに我々は、それらをもはや視ることはしない、読み取ることを開始するのである。そこでは、原初的エクリチュールへの遡行可能性の兆しが明滅している。

 フランスの批評家ロラン・バルトは、同じくフランスの写真家リュシアン・クレルグ『砂の言語』序文において、クレルグが提示する砂の線上模様のイマージュが、羊歯の化石や人間の身体のうちにある割れ目のイマージュへと転換されながら、古代中国の甲骨文字へまでも送り返されるような、ある種の原初的イマージュのアーカイブとしても機能していると提起しているが、まさに同様の契機をクーデルカの、とりわけ『Chaos』の写真群は内包している。

 しかし、それらは、あくまで仮初めの象形性であり、他の象形文字との類似という地平に絶対的に留まりつづける、無意味な象形文字である。クーデルカは唯、線描の幾何学に徹するのみ、それらは意味へと開かれてはゆかない、つまりは能記しか持たない不完全な記号なのだ。

 『Chaos』において、観者は、読み取り=有意味化への欲望を掻き立てられながら、決して捗々しい成果を手中にすることはできず、意味を求めて絶えず反省的に眼差しを画像に差し戻すことを余儀なくされる。画像が「意味」から絶えず遠ざかるもなお、観者は絶えず意味を引き寄せようとしている、この震える均衡状態が、静止画の表面において生じている様、それこそが混沌Chaosなのだ。混沌は、混乱、とパラレルではない。混沌は、何かが次々と生まれ出るダイナミズムの謂いである。

 クーデルカの一等初期の画業には、先にも記したように、「プラハの春」で一時的に花開いたチェコスロヴァキアの民主化の動きが、東側陣営の軍事介入で圧殺された「チェコ事件」の生々しい様相を、言論統制の網目をかいくぐって世界に報じるという、彼の極めてジャーナリスティックな身振りが刻み込まれている。invasionと題されたそれら写真群を、意味論的に捉えるなら、民主化を求めるものたちへのシンパシー、や、専制を敷く体制側への異議申し立て、といったコノテーションが明白に存在する。多義的な解釈の余地は少ないといってよい。一方、『Chaos』には、一見、あからさまな政治的コノテーションは認められない。確固とした解釈に決して収斂しない写真で溢れている。この意味論的な変節をどう捉えるべきか。筆者はここに、クーデルカの自己批評を見て取る。限られた解釈しか許されない状態を、“意味の専制状態”として批判し、自らの写真のうちに、不定の解釈へと開かれる創造的混沌を招き入れ、“意味の民主化”を求めたのではなかっただろうか。


関連書籍

Josef Koudelka, Chaos, Phaidon Press, 1999
ロラン・バルト[著]、石川美子[訳]、みすず書房、2003年

執筆者:旦部辰徳(文筆業)。早稲田大学第一文学部卒。広告会社勤務後、京都大学大学院人間・環境学研究科にて文学・美学を学ぶ(人間・環境学修士)。ストリートビューでの旅と、野良猫探しを日課としつつ、短歌・小説を執筆。その他、荻野NAO之写真展「太秦」キュレーション等。

アイキャッチ画像:Image by Jason Dent