ウィーン分離派が芸術家協会を脱退した経緯からして、彼らが自前の作品発表のための場を持とうとするのは当然であろう。前回説明した通り、第一回分離派展の際にはそのような施設の獲得には至らず、造園組合会館の一室を借りて会場としていた。その第一回分離派展の開催中に定礎され一年足らずの工期で完成にこぎつけたのがウィーン分離派館である。第二回分離派展はこの出来立ての建物が初めて作品展示に活用される、いわばお披露目の舞台でもあった。
実際分離派館は、すでに建設中から話題を呼び、ウィーン市民の視線を集める存在だった。当時ウィーンに開通してしばらく経った環状大通り、リンクシュトラーセの通り沿いには都市機能を担う施設や貴族の大邸宅が立ち並んでいたが、それらはいずれも過去の時代に範をとった装飾をファサードにちりばめた外観をしていた。
これに対し新たにつくられた分離派館は、白い漆喰塗りで仕上げられた平滑なファサードであり、建物全体としても直方体を組み合わせたような形をしており、周囲のごてごてした装飾の施された建物と比べ、いかにもシンプルですっきりとした印象を与えるものだっただろう。そんな中、建物の頂部に設置された金色のクーポラは全体の印象の中で不釣り合いなほど目に強く訴えかける要素となった。ほどなくウィーン人たちはこの建物を「黄金のキャベツ」と呼ぶようになったという[1]安永麻里絵「分離派会館と分離派展―総合芸術の理想と市場戦略―」池田裕子編『ウィーン 総合芸術に宿る夢』竹林舎、2016年、238ページ。。このことは分離派館の出現がウィーン市民たちにどのように受け止められたかを検討する材料を与えてくれる。
まず、建物の頂部に置かれたドームはそのようなあだ名をつけたくなるほどに、ウィーン市民に強い印象を与えたのだと考えることが出来るだろう。次に推測できるのが、そうした一部の特徴をとらえたあだ名をつけることで和らげたくなるような一種のショックを、分離派館はウィーン市民にもたらしたのではないかということだ[2]これは少しうがった見方であり、またもちろん確証のある話ではないが、例えばウィーンの人々は、分離派館の周囲の建物とのあまりの違い—装飾の無さ—を直視することを避けるため、敢えてクーポラという一点「だけ」をクローズアップしたあだ名をつけることでそれ以外を見ないでおこうとしたのかもしれない。。もちろん、そのようなショックが本当にあったのかどうかは、今となってはわからない。だが少なくとも、ある程度話題になっていなければ、そのようなあだ名をつけられたことが現代にまでエピソードとして伝わったりはしないだろう。
話題になったのは確かだとして、では彼らはどのように分離派館を受け止め、「黄金のキャベツ」というあだ名を与えることで何をしたかったのだろうか。具体的なウィーン市民の心情については想像するほかないが、分離派館の外見的特徴を身近な野菜を使って形容することで、その存在を認知し受け入れようとしたのではないだろうか。共同体や集団において、構成員が増えたり外部から新たに加わった際、その受け入れの過程で対象の特徴に合わせたあだ名がつけられるのは珍しいことではないだろう。
分離派館が「黄金のキャベツ」と呼ばれるようになったということを、ウィーン市民による分離派受け入れの一種のイニシエーションの手段として解釈してみるとする。だが、なぜ分離派館なのだろうか。同時期にすでに行われていた分離派の他の活動や露出の仕方ではなく、分離派館をあだ名で呼ぶことがなぜ選ばれたのだろうか。それとも、実際にはほかにも様々な対象や活動にそれぞれの仕方で受け入れが試みられたが、たまたま現代に残って伝わったのが、分離派館につけられたあだ名だったというだけのことなのだろうか。
この時までに分離派が行ってきたこと、分離派の生み出したものについてまとめてみよう。まず、結成とほぼ同時期に、既存の芸術家団体である芸術家協会を脱退した。そしてその趣旨を書簡の形で発表した[3]安永麻里絵「分離派会館と分離派展―総合芸術の理想と市場戦略―」前掲書、232ページ。。機関紙『ウェル・サクルム』を発刊し、様々な論客の論考を掲載した。第一回分離派展を開催し、国際的な視座に立った新しい芸術表現をウィーン市民に紹介しようとした。そして分離派館の建設である。
こうしてみると、分離派館建設以前の分離派の活動はその多くが「後に残らないもの」だったことが分かる。個々の活動はそれなりに話題を呼び、啓蒙された人もいただろうが、形として後に残る「もの」はないものばかりである。発行された雑誌はもちろん「もの」だが、定期刊行物は発売日から日がたつにつれ色あせてゆき、人の注意を引くことのできる期間は非常に短い。多くの人にとって、分離派と関連付けられるものは、激しい口調のマニフェスト、カフェで見かけたチラシや冊子、街角に貼られたポスターに踊る、いかめしいフォントのタイポグラフィ、見慣れぬ画風の絵画の展示などの「記憶」が主であって、様々に活動を行っていたにもかかわらず、依然としてその存在は実体を欠いた、どこかあやふやな印象をともなっていたのではないかと思われる。
そこに分離派館が現れた。オフィスとして使える部屋や会議室も備えたこの建物は、分離派の活動拠点であると同時に分離派とウィーンの間に明確な接点を築き、堅固な壁体によって分離派の活動が物質世界で雲散霧消するのを防ぎ、一方で展示会場として、望む人には分離派の芸術活動を見物する機会を与えたのである。分離派はこれにより、そこにいけばいつでも触れることのできる存在となった。
こうして分離派館という建物を手に入れたことで、分離派は怪しげな秘密結社や単発の展覧会組織委員会でなく、自前の展示会場やオフィスをも備えた、永続性のある芸術家集団の組織として自らをウィーンという都市に向けて打ち出したと考えられはしないだろうか。反対にウィーン市民の側から見れば、旧来の芸術家協会を足蹴にしたばかりのこの謎の一団に、分離派館という建物はようやく実体を与えてくれたものと感じられたかもしれない。もしそうだとすれば、「黄金のキャベツ」というあだ名の付与はウィーン市民が分離派の存在を分離派館もろとも認知し受け入れようと試みたということの、一つの証左と言えるだろう。
現代においてこのあだ名を用いる人がどれくらいいるか知らないが、おそらくほとんどいないだろう。分離派館は現在でも分離派の常設展示会場であると同時にその拠点である。分離派館のことをドイツ語ではWiener Secessionsgebäudeと言うが、口語では単にSecessionでもウィーンの分離派館を指すことが出来る。つまりウィーン市民の間では「分離派に行くgehen zur Secession」と言えば分離派館に行くことを意味するのである。このことは、ウィーンにおいて分離派と分離派館がいかに分かちがたく結びついたものとして受け入れられているかを示しているだろう。
たとえば、分離派館のてっぺんにあのクーポラが載せられなくとも、またそれを見たウィーン市民が「黄金のキャベツ」などというあだ名をつけなかったとしても、今日似たような形で分離派および分離派館がウィーン市民に受け入れられているというのは十分に考えられることだ。他者を受け入れる過程で必ずあだ名をつけなければならないわけでもない。 今回の話でお伝えしておきたかったのは、分離派館という建物が展示会場というその機能を超えて、分離派をウィーンという都市に根付かせる上で大いに役立ったということであり、その過程では頂上部の、見ようによっては悪目立ちのする金色のクーポラが一種のキャラ付けの要素としてウィーン市民に利用されたのではないかということである。(つづく)
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注
執筆者:岸本督司
アイキャッチ画像:1912年の第40回分離派展示会ポスター(photo by Till Niermann: CC BY 3.0)の一部をトリミング
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Poster_for_the_40th_exposition_of_Vienna_Secession_1912.jpg