セザンヌ《サント・ヴィクトワール山》

コンテキスト変容へのレジリエンス(前編)

■目標と意味付け

 私たちは、いつも何らかの目標を目指して生きている。その目標は知らず知らずのうちに目指していることもあれば、自覚して目指していることもある。私たちは、目指しているなんらかの目標と連動するようにして、身の回りで関わるさまざまな存在(人、物、事)を意味づけている[1]ここでの議論は、マルティン・ハイデガー『存在と時間』での「有意義性」の議論を参考にしている。ハイデガーによれば、ある人の世界に存在するさまざまな存在者は、その人自身の将来の可能性(目的)に基づいて意味づけされる。たとえば、釘を打つことを目的とする人にとって、或る存在者Xは「工具」として解釈される。しかし、仮にその人が何者かに襲われ、その危機から脱することを目的とする場合、その「同じ」存在者Xは「武器」として、別の仕方で解釈されるだろう。このように、ある人の目的と世界の意味づけは連動している。(『存在と時間』(上)、マルティン・ハイデガー著、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、192-194頁)

 たとえば、ある大学に入ることを目標とする人のことを想定してみよう。その人は、「その目標(大学合格)に照らして有用かどうか」に基づいて、その人の世界の中の存在を意味づけ・価値づけするようになる傾向を帯びるだろう。或る先生を「成績を上げてくれる先生」とか、或る友人を「一緒にいたら不合格になる友人」などとして、大学合格を基準に解釈するようになるかもしれない。

 それだけでなく、自分の過去も、この基準に沿って意味づけ・価値づけすることになる。たとえば、大学合格を目指す人が少し前までTVゲーム三昧の日々を過ごしていたなら、そのことを「大学合格に無関係な時間の過ごし方」と見做して後悔するようになったり、数年前になんの気なしにやっていた外国語を「あの時やっていてよかった!」と再評価したりするかもしれない。

 このように、私たちのそれぞれが生きる世界の現在、過去の意味づけは、それぞれが目指している将来的な目標、方向性の内容と、多かれ少なかれ、連動している(目標が複数ある場合は、それらの解釈が混ざったり、重なったり、矛盾したりもする)。

■意味づけ・価値づけが動揺するとき

 そのような各々の世界の意味づけ・価値づけは、常に一定というわけではなく、大きく変化することがある。それは、何らかの理由で、それまでの目標が消えてしまったり、その目標の存在感が薄くなるときだ。世界の意味づけは、目標と連動しているため、目標が変化すると、意味づけ・価値づけも変化する。そうなる要因はいくつか考えられる。

1.目標の変更

 まず、それまでには考えもしない目標が、自分の人生に現れてくる場合である。たとえば、先ほどの受験生が何らかの縁で、急に「花火職人」を目指さなければならなくなった場合を考えてみよう。それまで「大学合格」という目標と連動して行われてきた世界の意味づけ・価値づけは、大幅な変更を余儀なくされることになる。

 大学合格という目標はもはやこの人にとってそれまでの重要性を持たなくなる。すると、或る先生を「合格させてくれる」先生であるとか、或る友人を「一緒にいたら不合格になる」友人などとして、大学合格を基準に解釈する必要もなくなる。

 代わりに、「花火職人になる」という新たな関心事に関連する視点から、先の先生や友人を解釈し始めることになる。たとえば、「花火職人という仕事を知らない、視野の狭い」先生であったり、「実は各地の花火大会を行脚している、風流な趣味を持つ友人」などの、新たな一面が見えてくるかもしれない。

 また、目標はある瞬間にパッと一変するとはかぎらず、知らず知らずのうちに徐々にズレが生じていて、気がついたら大きく変化していることもある。

2.死の実感

 珍しくない話として、大病を経て、あるいは生死を分ける事件や事故を経て、自身の人生観が変わった、というものがある。ある病気で死が近いと実感した人が、死までの時間を、それまでとは別の仕方で有意義に過ごしたいと思うような場合である。

 客観的に死が近いかどうかにかかわらず、「もうすぐ死ぬかもしれない」という実感は、「いま目指してる目標を達成する前に自分は死んでしまうかもしれない」という可能性をまざまざと考えさせる。そのとき、普段の目標と連動する世界の意味づけ・価値づけの現実感が、薄らいでゆくのが感じられる。自分の過去や現在が、日常的な目標ではなく、その目標達成を不可能にする死(という、目標ならざる「目標」)と連動して解釈されるようになる(いわゆる「走馬灯」現象も、特定の目標に照らした過去の意味付け、価値付けの現実感が弱まることにより、可能になるのかもしれない)。

 大学合格に対して役立つ時間の過ごし方ならば、ある程度決まったセオリー(特定の勉強法や予備校、評価書、推薦書など…)があるだろう。しかし、死に対して「役立つ」時間の過ごし方となると、話は難しくなる。何をしても結局は、死んでしまうことには変わりないからである。ある意味では何をしても、行き着くゴールは同じ死であるから、その意味では、何をしても「無駄」と言える。

 しかし、「死ぬまでに充実した時間を過ごす」こととか、「死までの時を豊かに過ごすこと」を目標にするのであれば、その目標になんらかの仕方で貢献する時間の過ごし方は見つかりやすくなるのかもしれない。それは、後悔ないように残りの時間を過ごすことなのかもしれない(ただし、形式的にはそのように言えたとしても、どのような内容の時間を過ごせば後悔ないのかというのことは、人それぞれ異なるだろう)。

 普段、基本的に私たちは「当分は死なないだろう」と、ある意味ではたかを括って生きている。そうして、具体的な目標を設定し、計画している。「次の瞬間死ぬかもしれない」などと本気で思っていたら、何の目標も計画も立てることはできない。その意味では、この死の忘却は、生の営みに不可欠な、健全な忘却である。

 しかし、日常的な目標は、いわゆる日々の生活に追われて、俯瞰的な視点を忘れてしまった、近視眼的な価値付け・意味付けになっていることも少なくない。それに対して死の自覚は、そのような比較的近い目標に基づく意味付け・価値付けとは別の、生から死までの人生をトータルで考えた、オルタナティブな意味づけ・価値づけを提供してくれる契機になりうる。

3.夢の中

 さらに、夢の中の場合である。夢の中では、現実で一貫して縛り付けられている目標がない。たしかに、ある夢の中では、ある目標達成のために必死で努力していることがあるかもしれない。しかし、次に見た夢の中でも、同じ目標を継続して目指していることは稀である。夢の中では、見る夢ごとに異なる目標が目指されたり、そもそも目指される目標が曖昧であったり、存在しなかったりする。そのことにより、夢の中では、世界の現在や過去の意味づけ・価値づけの基準が、現実よりも拡散する傾向にある。

 夢の中で現れる「荒唐無稽」なイメージ群は、現実における特定の目標の不在が可能にしていると考えることができる。さまざまな意味や価値が、現実の関心事にあわせて序列化されず、そのまま出てくるところがあるからである(そして、それらのイメージの中には、「夢の中でしか出てこない「記憶」」も混ざっているように思えるときがある。夢の中でだけ感じる懐かしさや、知り合いというのが存在するからである)。

 古くから夢は、現実とは異なる、言わばオルタナティブな意味・価値の源泉として、さまざまな分野にインスピレーションを与えてきた。ニーチェによれば、夢の中で人間は「第二の実在世界」を知っていると信じたのであり、夢はあらゆる形而上学、霊魂と肉体の分離、幽霊、神々、死後の世界の信仰の起源であるという[2]「夢の中で、野蛮な原始的文化の時代の人間は第二の実在世界を知っていると信じた、ここにあらゆる形而上学の起源がある。夢がなければ、世界を分けるなんらのきっかけもなかったであろう。霊魂と肉体とに分解することもまた夢のもっとも古い見解と関連する、霊魂が仮りの肉体に宿るという仮定、したがってあらゆる幽霊の信仰やおそらく神々の信仰の由来もまた同様である。「死者は生きつづける、なぜなら彼は夢の中で生者に現われるから」、そう人はむかし幾千年を通じて推理したのである」(『人間的、あまりに人間的』(第1巻)、フリードリヒ ・ニーチェ著、池尾健一訳、ちくま学芸文庫、1994年、30頁) 。それは、夢の世界が現実的な関心の統制から免れているところがあるからかもしれない。

 夢においても自分は自分だが、その「自分」の範囲が現実の関心に制限されておらず、より広範囲に拡散しているのである。

4.幼少期

 子どもの頃は、自分の目指している目標が定かではないことが多い。ベルクソンは、子どもが時折見せる驚異的な記憶力は、大人が縛られている特定の関心ごとから子どもが解放されていることに拠ると述べている[3]「たいていの子どもにおいて自発的記憶力が非常に発達しているのは、まさに自分の記憶力と行動をまだつなげられていないことに由来する。子どもたちは目の前の印象を追いかけるのが常であり、彼らにおいては、行為が記憶の指示するところに従っていないのと同じく、記憶のほうもまた行為の必要に合わせて制約されていないのだ。彼らが物事を大人よりずっと簡単に記憶できるように見えるのは、単に彼らが大人のような分別もなく思い出すからにすぎない。だから、知能が発達するにつれて記憶力は衰えるように見えるが、それは次第に記憶が行為と一緒に組織されていくからである。こうして記憶力は拡がりを失うが、そのぶん鋭さを得る。記憶力は当初、夢のような記憶力の容易さをそなえていたが、それは記憶力が本当に夢見ていたからなのだ。」(『物質と記憶』アンリ・ベルクソン著、杉山直樹訳、講談社学術文庫、2020年、223頁)。たしかに子どもの頃、何かに熱中するのに、目的や理由はいらなかった。子どもは、半分夢の中に生きているかのようである。ニーチェもエリック・ホッファーも、大人が再び子どものような、その行為自体が目的になるような情熱を取り戻すことを理想視している[4]「男の成熟、それは子供の頃に遊びのうちで示した真剣さを取り戻したということだ」(『善悪の彼岸』フリードリヒ・ニーチェ著、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2010年、166頁)。「小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。」(『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ著、手塚富雄訳(『世界の名著』第46巻、中央公論社、1966年、81頁))[5]「有意義な人生とは学習する人生のことです。人間は、自分が誇りに思えるような技術の習得に身を捧げるべきです。技能療法の方が宗教的な癒しや精神医学よりも大事だと思います。技術を習得すれば、たとえその技術が役に立たないものでも、誇りに思えるものです。五歳の子どもを間近に見たことがある人なら誰でも、その技術習得欲を印象づけられたはずです。私は、かつて、成熟するとは、五歳の子どもの真剣な遊び心を取り戻すことだと言いました。当時は独創的な考えだと思っていましたが、後に、ボードレールが、天才を子どものような探究心を持つ人と定義しているのを知りました。」(「インタビュー 七十二歳のエリック・ホッファー」シーラ・K・ジョンソン著、『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー著、中本義彦訳、作品社、2015年、167-168頁所収)

 このように、人生の中での目標の変化の体験、死の実感、夢の体験、幼少期の想起などにより、私たちは、それまでの世界や自分に対する意味づけ・価値づけが(自分のなかでさえも)唯一のものではなく、変更される可能性があることを体験的に知ることができる。

 しかしこのことは、「こういうこと、あるよね」ということ以上に、何かを言いうるのだろうか。

(続く)

コンテキスト変容へのレジリエンス(中編)


関連書籍

マルティン・ハイデガー著、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年
フリードリヒ ・ニーチェ著、池尾健一訳、ちくま学芸文庫、1994年
アンリ・ベルクソン著、杉山直樹訳、講談社学術文庫、2020年
エリック・ホッファー著、中本義彦訳、作品社、2002年

1ここでの議論は、マルティン・ハイデガー『存在と時間』での「有意義性」の議論を参考にしている。ハイデガーによれば、ある人の世界に存在するさまざまな存在者は、その人自身の将来の可能性(目的)に基づいて意味づけされる。たとえば、釘を打つことを目的とする人にとって、或る存在者Xは「工具」として解釈される。しかし、仮にその人が何者かに襲われ、その危機から脱することを目的とする場合、その「同じ」存在者Xは「武器」として、別の仕方で解釈されるだろう。このように、ある人の目的と世界の意味づけは連動している。(『存在と時間』(上)、マルティン・ハイデガー著、細谷貞雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、192-194頁)
2「夢の中で、野蛮な原始的文化の時代の人間は第二の実在世界を知っていると信じた、ここにあらゆる形而上学の起源がある。夢がなければ、世界を分けるなんらのきっかけもなかったであろう。霊魂と肉体とに分解することもまた夢のもっとも古い見解と関連する、霊魂が仮りの肉体に宿るという仮定、したがってあらゆる幽霊の信仰やおそらく神々の信仰の由来もまた同様である。「死者は生きつづける、なぜなら彼は夢の中で生者に現われるから」、そう人はむかし幾千年を通じて推理したのである」(『人間的、あまりに人間的』(第1巻)、フリードリヒ ・ニーチェ著、池尾健一訳、ちくま学芸文庫、1994年、30頁)
3「たいていの子どもにおいて自発的記憶力が非常に発達しているのは、まさに自分の記憶力と行動をまだつなげられていないことに由来する。子どもたちは目の前の印象を追いかけるのが常であり、彼らにおいては、行為が記憶の指示するところに従っていないのと同じく、記憶のほうもまた行為の必要に合わせて制約されていないのだ。彼らが物事を大人よりずっと簡単に記憶できるように見えるのは、単に彼らが大人のような分別もなく思い出すからにすぎない。だから、知能が発達するにつれて記憶力は衰えるように見えるが、それは次第に記憶が行為と一緒に組織されていくからである。こうして記憶力は拡がりを失うが、そのぶん鋭さを得る。記憶力は当初、夢のような記憶力の容易さをそなえていたが、それは記憶力が本当に夢見ていたからなのだ。」(『物質と記憶』アンリ・ベルクソン著、杉山直樹訳、講談社学術文庫、2020年、223頁)
4「男の成熟、それは子供の頃に遊びのうちで示した真剣さを取り戻したということだ」(『善悪の彼岸』フリードリヒ・ニーチェ著、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2010年、166頁)。「小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。そうだ、わたしの兄弟たちよ。創造という遊戯のためには、「然り」という聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。世界を離れて、おのれの世界を獲得する。」(『ツァラトゥストラ』フリードリヒ・ニーチェ著、手塚富雄訳(『世界の名著』第46巻、中央公論社、1966年、81頁))
5「有意義な人生とは学習する人生のことです。人間は、自分が誇りに思えるような技術の習得に身を捧げるべきです。技能療法の方が宗教的な癒しや精神医学よりも大事だと思います。技術を習得すれば、たとえその技術が役に立たないものでも、誇りに思えるものです。五歳の子どもを間近に見たことがある人なら誰でも、その技術習得欲を印象づけられたはずです。私は、かつて、成熟するとは、五歳の子どもの真剣な遊び心を取り戻すことだと言いました。当時は独創的な考えだと思っていましたが、後に、ボードレールが、天才を子どものような探究心を持つ人と定義しているのを知りました。」(「インタビュー 七十二歳のエリック・ホッファー」シーラ・K・ジョンソン著、『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー著、中本義彦訳、作品社、2015年、167-168頁所収)


執筆者:エドガー・ジェニングス・プラム(Edgar Jennings Plum)

アイキャッチ画像:ポール・セザンヌ《レ・ローヴから見たサント・ヴィクトワール山》1902–06年
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Montagne_Sainte-Victoire,_par_Paul_C%C3%A9zanne_110.jpg


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