真に美しい対象を前にすると、ある秘密の本能がその価値を知らせ、先入見や反感があったとしてもそれを賞賛するように強いてくる。誠実な人たちはこの件に関して意見が一致しているが、このことが証明しているのは、すべての人が愛や憎しみといったあらゆる情念を同じように感じるように、またすべての人が同じ快楽に酔い、あるいは同じ苦痛に引き裂かれるように、すべての人は美を前にして等しく感動し、また同様に醜いもの、つまり不完全さを眼にして傷付けられたと感じるということである。
しかしながら、議論をしたり原稿を書いたりすることで自分を取り戻し、最初の感動から立ち戻る時間ができると、これらの賞賛者たちは、たとえ一瞬の間はどれほど意見が一致していたとしても、もはや賞賛の主要な点についてさえ理解しあえないということが起きる。学校の習慣や、教育や祖国の先入見が彼らの精神の中で再び優勢になるのであり、このとき、有能であればあるほど、判断者は〔最初の判断と〕矛盾する傾向があるように思われる。というのも、単純な人の場合、少ししか感動しないか、最初の賞賛に固執するかのどちらかだからだ。私たちは、こうしたさまざまなカテゴリーに妬み深い人たちの一群は含めていない。彼らにとっては、美しいものはいつも絶望をもたらすものである。
美しいものへの感情は、ラファエロやレンブラントの絵画であるとか、シェイクスピアやコルネイユの舞台を見て「なんて美しいんだ!」と言うときに、どれであっても区別なくわれわれをとらえる感情なのだろうか。それともこの感情は特定のタイプに対する賞賛に限定されており、それ以外に美はまったく存在しないのだろうか。要するに、アンティノウス[1]この像は長く《ベルヴェデーレのアンティノウス》として知られ、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117-138年)に寵愛されたアンティノウス像とみなされていたが、現在ではギリシャの神ヘルメスの像だとされている。またギリシャのオリジナル作品ではなく、紀元前4世紀アテナイの彫刻家プラクシテレスかもしくはその弟子筋によるブロンズ像を、ハドリアヌス朝時代(紀元2世紀初頭)に複製したものとされている。、ウェヌス〔ヴィーナス〕、剣闘士といった、一般に古代の人たちからわれわれに伝わってきた純粋なモデルというのは不変の規則であり正典であって、これらのモデルには恩寵〔優美〕や生命そのもの観念とともに均整の観念も必然的に含まれているのだから、奇怪なものへと堕落したくなければ離れてはならないようなものなのだろうか。
同じようなタイプのものだけが、古代から受け継がれてきたわけではない。シレノスは美しく、パン〔ファウヌス〕は美しく、ソクラテスでさえも美しい[2]三者とも古来外見が醜いとされてきた。。この〔ソクラテスの〕顔つきは、小さく平べったい鼻、厚い唇、小さな目にもかかわらず、ある種の美に満ちている。たしかにその顔立ちは左右対称の美しいプロポーションで輝いているわけではないが、思考の内的な気高さを反映することによって生き生きとしているのである。とはいえ、シレノスやファウヌス、そしてその他多くの人物像も、古代では石で作られていた。石やブロンズ、大理石では表情の表現にある種の抑制が求められるが、それを絵画で模倣すると、こわばった味気ないものになってしまうことは容易に理解できるだろう。色彩が効果を発揮し、直接的な模倣へと〔彫刻よりも〕より近づきやすい後者の芸術〔絵画〕は、より脈打つ、より斬新な細部、つまり厳格な形態から〔彫刻よりも〕はるかに逸脱するような細部を許容するものである。
現代の学校は、均整のとれた古代の作品から逸脱するものをすべて禁止してしまった。ファウヌスやシレノスを美化することさえし、老人からは皺を取り除き、自然の出来事や労働が人間の姿の表象にもたらした、避けられない、時には特徴的な醜さを削除することで、学校にとっての美とは一連の方法でしかないことを素朴にも証明してしまった。学校では、代数学を教えるのと同じように美しいものが教えられ、さらに、たんに教えるだけでなく、その簡単な例を示すことも可能だった。実際、これ以上に馬鹿げたことがあると思われるだろうか。あらゆる性質をただひとつのモデルに近づけること、自然のなかで人間のさまざまな気質や年齢を区別してくれる深い差異を弱め、消し去ること、顔立ちや四肢の調和を乱しうる複雑な表情や激しい動きを避けること、要するにこれが、美しいものをいわば手中に収めるためにすがる原則なのだ!そうなると、それを生徒たちに実践させ、寄託物のように世代から世代へと伝えていくことは簡単である。
しかし、あらゆる時代の美しい作品を見ると、美が同じような条件下で見出されるわけではないことが証明される。美は、農地を相続するように譲渡されたり授与されたりするものではない。美とは、たゆまぬ労苦の積み重ねそのものであるねばり強いインスピレーションの成果なのである。美は、生きる定めにあるすべてのものと同じく、痛みと傷を伴って胎内から生まれてくる。美は人びとを魅了し、慰めるのであり、その場しのぎの応用や陳腐な伝統から実ることはありえない。卑俗な栄誉が卑俗な努力に栄光を与えることもある。一瞬の気まぐれから生まれた作品でも、成功しているあいだは一時的な承認が得られるかもしれない。しかし、栄光を追い求めるには別の試みが要請される。その微笑みをひとつ引き出すためにも、ねばり強い闘いが必要である。〔だが〕それでもまだ十分ではないだろう。栄光を手に入れるには、多くの才能と運命からの好意がひとつにならねばならないのである。
単に伝統にしたがうだけでは、人に「なんて美しいんだ!」と叫ばせるような作品が生まれることはあるまい。大地からあらわれる霊〔génie=天才〕、知られざる、天賦の才に恵まれた人間がやってきて、万人が用いるための教えというなにも生み出すことのない足場を転倒させる。モデルの皺を丹念に模し、いわば髪の毛を数えるほどの一枚のホルバイン、卑俗な人びとをきわめて深い表情で描く一枚のレンブラント、古代人の芸術をまったく知らず、痩せて捩れた人物像を描くあのドイツやイタリアのプリミティヴ派の人たちの作品は、さまざまな美によって、すなわち学校が物差しを手に探し求めているかの理想によって輝いている。素朴なインスピレーションに導かれ、自分たちを取り巻く自然と深い感情から知識では偽造することのできないインスピレーションを引きだすことで、彼らは周囲の大衆も教養人も魅了し、すべての人の心の中に存在していた感情を表現する。彼らは、無用の学問が経験や教訓にむなしくも求める、かの至高の宝玉をおのずから見つけたのである。
ルーベンスはイタリアや古代の作品を見ていた。しかし彼は、どんな実例にも勝る本能に支配されており、美が生まれる土地〔イタリア〕から戻り、フランドルにとどまった。彼は、民衆や使徒たちの美、つまり実直な人間の美をあの《奇跡の漁》の中で見出した。そこで彼がわれわれに描きだしたのは、キリストがシモンに「網を捨てて私について来なさい、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう」〔マルコによる福音書1:17〕と語る場面である。わたしには、この人となった神が、ラファエロにおいて確立されたような、髪を綺麗に梳いた弟子たちに向かって、こんなことを言ったようには思えない。あの見事な構成がなかったとしたら、すなわち一方の側にはキリストだけを配置し、使徒たちをその正面に一列に並ばせ、聖ペテロが膝をついて鍵を受け取るという巧みな配置がなかったとしたら、私たちはおそらく姿勢や服装のある種のわざとらしさにショックを受けるだろう[3]この辺りの記述は、「ラファエロのカルトン」のうち、特に《ペテロに天国の鍵を託すキリスト》を念頭に置いているように思われる。。それに対して、ルーベンスが提示する隊列はジグザグで不規則であり、衣服の襞も無骨で無造作に投げ出されたかのようである。それによって彼らの崇高で簡素な特徴は損なわれている。この面からすれば、彼はもはや美しくない。
ラファエロの《聖体の論議》とパオロ・ヴェロネーゼの《カナの婚礼》を比較すると、前者には調和した線や優美な着想が見られ、眼にも精神にも快い。しかしながら、人物の動きが対照的であることと、形態一般を優れて探求したことによって、この構図には一種の冷たさが入り込んでいる。聖人たちも学者たちもお互いをまったく知らない様子で、ひとりひとりが永遠にその場でポーズをとっているかのようである。パオロ・ヴェロネーゼの饗宴に見られるのは、私が身の回りで出会うような、様々な姿や気質を持った人びとである。彼らは会話をし考えを述べあっている。気難しい人の隣には怒りっぽい人がいて、無関心なあるいはぼんやりした女性の隣には艶っぽい女性がいる。つまり生命と運動があるのだ。わたしは空気や光について語っているのではないし、色彩の効果について語っているのでもない。それらは〔ヴェロネーゼにおいて〕比類なきものである。
美はこの2つの作品のなかに等しく存在しているのだろうか。おそらくその通りだ。しかし異なる意味においてである。美には度合いというものがない。ただ美の感情を引きおこす方法だけが異なるのである。このふたりの画家において、スタイルは同じように優れている。というのもスタイルとは力強いオリジナリティだからである。いくつかの手法を真似て、衣紋を調節したり構図の列のバランスをとったりしたとしても、もっとも純粋なタイプの形態を探求したとしても、ラファエロの観念がもつ魅力と高貴さに到達することは決してないだろう。また、モデルを自然の細部まで模写したり、錯覚を引き起こすのに適切な効果の研究を真似してみても、《カナの婚礼》という魔法のような絵画の紐帯をかたちづくる、あの画面全体に現れる生命や熱量に出会うことはないだろう。
〔ジャック=ルイ・〕ダヴィッドがルーベンスの《十字架のキリスト》[4]これが具体的にどの作品を指すのか訳者は寡聞にして知らないのだが、参考までにルーベンスの《キリスト降架》の絵を挙げておく。この絵は制作当時から現在までアントウェルペンの聖母大聖堂に設置されているが、聖ワルブルガ教会にあった《キリスト昇架》とともにナポレオンによって一時期フランスに持ち去られていた。や、一般にこの巨匠のきわめて熱情的な絵画に対する強い賞賛を打ち明けたとき、それはこれらの絵が、彼が崇拝していた古代の作品に似ていたからだったのだろうか。
フランドルの風景画の魅力はどこから来るのだろうか。わが国〔フランス〕の風景画派の父たる、イギリス人コンスタブルの風景画の力強さと意外性、それはきわめて傑出したものなのだが、それとプッサンの風景画との共通点はなんだろうか。前景のある種の定型的な木々の内にスタイルを追求するあまり、クロード・ロランの風景画は幾分か損なわれていないだろうか。
ディドロが、彼の父親の肖像画を持ってきた画家に対して言ったことを思い出してほしい[5]このエピソードとほぼ同じ話がディドロの「明暗法の検討」に記述されているが、ドラクロワがここで書いているものとは若干異なっている。ドラクロワの文章では、画家が描いたのはディドロの父親の肖像であるように読めるが、「明暗法の検討」では、ある若者が家族から父親の肖像をどう描いてもらうのがよいか相談を受けたとなっている。ちなみに刃物職人なのはディドロの父親であり、「明暗法の検討」に出てくる若者の父親は「鍛冶屋」となっている。ドニ・ディドロ「明暗法の検討」『絵画について』佐々木健一訳、岩波文庫、2005年、147頁参照。。その画家は、彼の父親をまったく気取らずに仕事着で表現するのではなく(彼の父親は刃物職人だった)、持っているなかでもっとも美しい衣服で飾り立てた。「君は私に日曜日の父を描いてくれた、だがわたしが望んでいたのは日常の父だったのだ」。ディドロの画家は、ほとんどすべての画家と同じように事をなした。彼らは、いま存在しているような人間を作ることで、自然は間違いを犯したのだと考えているかのようである。彼らは自分の描く人物像に化粧をし、着飾らせる。日常の人間であるどころか、それは人間ですらない。巻き毛のカツラの下にも、整えられた衣紋の下にも何もない。それは精神も肉体もない仮面である。
もし、古代のスタイルが限界を定め、絶対的な規則性だけが芸術の行き着く先であるならば、かのミケランジェロをどの順位に位置づけるというのか。彼の着想は奇抜で、人体はねじれており、各プランは誇張されすぎているか完全に間違いで、自然をごく表面的に模倣したものである。ミケランジェロに美を認めずにいるためには、彼は崇高なのだと言わざるを得なくなるだろう。
ミケランジェロは、私たちと同じく、古代の彫像を見ていた。歴史が語るところによると、彼はこれらの驚くべき遺物への崇拝を公言しており、彼の称賛は私たちのものと同じように大きかった。しかしこれらの作品を見て評価したからといって、彼の性向や性質が変わることはなかった。彼は自分自身であることをやめず、彼の着想は古代作品の着想と並んで賞賛されうるものである。
同じ巨匠の創作物の中でも、もっとも規則にかなったものがつねにもっとも完璧に近づいたわけではないことに注意してほしい。その特殊性の例として、ベートーヴェンを挙げよう。彼の全作品はまるで長きにわたる苦痛の叫びそのものであるかのようであるが、その中に3つの明確に区別される段階を見分けることができる。最初の段階では、彼のインスピレーションはもっとも純粋な伝統に労することなくしたがっている。〔とはいえ〕神々の言語を話すモーツァルトの模倣のかたわらでは、すでにあのメランコリーが、時に内なる炎を露呈する情熱的な躍動が、炎を吐き出していないときでも轟音が火山から発せられるように、たしかに息づいているのが感じられる。しかし、アイディアがあふれ、いわば未知のかたちを創造せざるをえなくなるにつれて、ベートーヴェンは正確さや厳格なプロポーションを無視するようになった。同時に彼の領域は拡大し、才能の最大の力に到達した。私は、彼の作品の最後の部分〔第三段階〕になると、学者や音楽通の人たちが彼に従うことを拒否することをよく知っている。この壮大で特異な、いまだ曖昧でありおそらくは今後も曖昧でありつづけることを運命づけられている創作物を前にすると、芸術家や専門家はどう判断していいか迷ってしまうのである。しかし、彼の第二期の作品が、当初は解読不能とされていたにもかかわらず、一般に受け入れられ、彼の傑作とみなされていることを思い出すならば、私は自分の感情に反しても彼に賛同し、他の多くの場合と同じように今回も、やはり天才に賭けなければならないと信じることにするのである。
批評家たちは、完璧さを築きあげる本質的な性質についてつねに意見が一致してきたわけではない。今日、規則性や純粋性の名の下にベートーヴェンやミケランジェロを非難しようとするような人たちも、他の原理が支配する別の時代だったなら、彼らを許し絶賛していただろう。例えば学校は、これらの原理を、時には素描〔デッサン〕に、時には色彩に、時には表現に、時にはなんと、あらゆる色彩とあらゆる表現の欠如に置いてきたのだ。前世紀〔18世紀〕および今世紀〔19世紀〕初頭のイギリスの画家たちは、傑出した一派でありながらわが国ではほとんど評価されていないのだが、彼らは光と影の効果にこの原理を見いだしていた。それは今日、輪郭にのみ、つまりはこの〔光と影の〕効果の完全な欠如にのみ原理を見いだすことが望まれているのと同様である。
あらゆる時代の偉大な芸術家たちはこうした区別を一切気にとめなかったと考えてよい。色彩と素描は彼らが用いるべき必要な要素だったので、彼らはそのどちらか一方を優位に立たせることに腐心することなど少しもなかった。彼ら自身の傾向が、本人も知らないうちに特定の美質を際立たせるよう導いたのである。絵画において、この芸術の本質的な諸性質をまったく組み合わせていないような傑作がありうるなどと考えることは理にかなっているだろうか。偉大な画家は皆、みずからの精神にふさわしい色彩や素描を用いたのであり、それが彼らの作品にあの最高の質、学校では語られない、また学校では教えることができない最高の質、すなわち形態の詩情と色彩の詩情とを与えたのである。こうした土地で彼らは皆出会ったのであり、しかもそれはあらゆる流派を越えていたのである。
露に濡れ、鳥の歌声に活気づき、心に触れる自然のあらゆる魅力に彩られた朝の風景を前にすれば、学者であれ一般人であれ、線のことも明暗法のことも考えたりはしないだろう。彼らは同じように感動し、その感覚はあるひそやかな幸福に、プッサンが絵画の唯一の対象としたあの喜びに浸されるだろう。
〔ロジェ・〕ド・ピールは、例の『画家の採点表』の中で、有名な画家たちひとりひとりの才能にふくまれている色彩、明暗法、素描のさまざまな量について重々しく述べ立てている[6]ロジェ・ド・ピール(1635-1709)はフランスの画家、彫版家、理論家。1670年代に展開された「色彩論争」においては、色彩派の論客として活躍した。一般に彼が「名誉評定官conseiller honoraire」として美術アカデミーに受け容れられた1699年に色彩派の勝利が決定的になったとされる。ここで言及されている「画家の採点表」は、彼が1708年に出版した『原理からの絵画講義Cours de peinture par principes』に収載されていたもので、そこでは16人の画家について、構図(composition)、素描(dessin)、色彩(couleur)、表現(expression)の各項目について点数がつけられていた。実際の点数は以下から確認可能。https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5814705x/f405.item.zoom。彼はどの画家にも完璧さを見出さなかったが、20点を最高点とした上で、例えばラファエロには素描について18点しか与えない一方で、ミケランジェロには19点を与えている[7]ドラクロワの記憶違いか。実際にはミケランジェロのデッサンは17点である。。一方、ティツィアーノとルーベンスの作品には、色彩については気前よく点を与えたが、素描に関してはかなりの 不備を指摘している[8]ティツィアーノは構図12点、素描15点、色彩18点、表現6点、ルーベンスは構図18点、素描13点、色彩17点、表現17点である。合計点はルーベンスとラファエロが65点で最も高かった。。彼はいわば、才能の資産と負債を提示したのだ。
偉大な人間をこんな風に分析するとは、なんと楽しい化学だろうか!批評家の好みにあわせて偉大な人間を同じように再構成することができるとはなんと貴重な発見だろう!例えばミケランジェロからはその過剰さによって彼を窒息させてしまっている素描の点数を取り去って、それを色彩の行きすぎで溺れかけている不幸なルーベンスに与えることができるというわけだ。この哲学者にとっては、コレッジョの輪郭線が、それを包み込む明暗法のなかで死んでいくのを見るのはなんとも悲しいことなのであり、プッサンは明暗法の不足によって不安を与えるのだ!だがコレッジョはまさにこの明暗法の巨匠なのだし、プッサンは構図に関する知識にあふれており、10人の画家にそれを与えることができるほどである。善良なるド・ピールは、善き意志といくばくかの努力さえあれば、これらの傑出した人たちも彼が評価する性質のバランスを回復し、真の美にはるかに近いところに到達していただろうと確信しているかのようである。
自然は、それぞれの才能の持ち主に固有の護符(talisman)を与えた。それを私は、無数の貴金属を混ぜ合わせて作られたこの上なく貴重な金属に例えてみたい。それは素材となった要素の様々な割合によって、魅力的な音を奏でることもあれば、恐ろしい音を奏でることもある。容易には満足しない繊細な才能の持ち主がいる。彼らは精神をとらえようと努め、芸術が持つあらゆる手段を使って精神に語りかける。ひとつの作品を100回やり直し、統一性と印象の深さのために、タッチや、多かれ少なかれ細部を目立たせることになる巧みな仕上げを犠牲にする。それがレオナルド・ダ・ヴィンチであり、それがティツィアーノである。ティントレットや、さらにはルーベンスのような別の才能の持ち主がいる。私は表現においていっそう先に進んでいるので後者〔ルーベンス〕の方がより好きなのだが、彼らは血と手に宿るある種の霊感に導かれている。ここでは触れないが、ある種のタッチの力が、これら巨匠の作品に生気と活力を与えている。それはより慎重に制作したからといって必ずしも達成できるものではない。その効果を、主題や機会や聴衆に引っぱられて、冷静になれば自分ですら驚くような高みにまで上昇する演説者がもつ特異な才気の冴えに比較すべきである。聴衆も演説者自身も魅了するこうした特別な躍動に即興という名前を与えることについては、意見は一致している。絵画においても、弁論術におけるのと同じく、この種の即興が——それをもしそう呼びたいなら——、粘り強い作業によってあらかじめ準備され、いわば卵のようにあたためられていなければ、芸術一般についてであれ、あるいは演説家や画家の対象である主題そのものに対してであれ、通俗的な効果しか生まないであろうことは容易にわかるだろう。〔しかし〕概してこの種の効果は、洗練された形式をもつ作品が生み出す効果ほどには吟味にたえないと主張されている。例えばミラボーの演説は、それを読む場合には、彼の同時代人が私たちに伝えてくれている壇上での並外れた輝きの観念に一致しない。彼が演説し、議会だけでなく国民全体を感動させ、魅了したとき、彼の演説は美の条件をあまり満たしていなかったのだろうか。反対に、このような非常に練り上げられ、静かな小部屋では真摯ですらある演説が、何千人もの聴衆を前にした演説場で冷静な賛同しか得られなかったということはなかったのだろうか。アトリエでは文句のつけようのない絵画が、展覧会という白昼堂々とした場で、つまり必要な高さに置かれ、特別な場所にはめこまれたとき、賛美者や大衆の期待をつねに満たしていたのだろうか。
芸術家が美を置こうと望んだ場所に美を見なければならない。ムリーリョの聖母マリアに、ラファエロのマリアのけがれなき優しさや内気な慎み深さを求めてはならない。彼女たちの顔の特徴や彼女たちの態度の内にある神的な忘我や、未知なる光輝へと高められた死すべき被造物の勝利のとまどいを賞賛したまえ。この二人の画家がどちらも、栄光における聖母を描いた絵画のうちに、敬虔な寄進者や伝説上の聖人たちの姿を取り入れているのだとしても、私たちは、ラファエロにおいては、その高貴なる単純さと動きの優美さに魅了され、ムリーリョにおいては、何よりも彼らに浸透している表現〔表情〕に魅了されるのである。ムリーリョが私たちに示す修道士や隠修士は、砂漠や自分の小部屋の中で十字架の前にひれ伏し、敬虔な苦行によって傷付いており、今度は私たちを献身と信仰の感情で満たしてくれるのである。
私たちを取り囲むものとはきわめて異なる領域へと私たちを連れ去り、子どもじみた気晴らしに明け暮れる懐疑的な私たちの生活のさなかで官能を抑制することや犠牲や瞑想の力を思い起こさせてくれる、非常に洞察に富んだ作品には美が欠けているのだろうか。そしてもし本当に美がこれらの作品に多少なりとも息づいているのだとして、古代の作品により似せることで、不足しているものを得ることができるのだろうか。
古代の作品を持っていなかった古代人はどうしたのかと問うた人がいた。レンブラントはオランダの湿地から一度も外に出たことがなかったためにこれとほとんど同じ状況にあったのだが、彼は自分の顔料調合機を指して言った。「これが私の古代だ」。
古代の作品を模倣することが素晴らしいと考えるのは正しいが、それは、節度を守った表現や自然さと気高さの両立というすべての芸術を永遠に支配する法則が、古代の作品では遵守されているのが見られるからである。それに加えて、実際の制作手段がきわめて理にかなっており、効果を生み出すのにきわめて適しているからでもある。これらの手段は、オリュンポスの神々——彼らはもはやわれわれの神々ではない——や、古代の英雄たちを延々と再生産する以外にも用いることができる。レンブラントは、ぼろをまとった乞食の肖像を描いたとき、ゼウスやアテナの像を彫るペイディアスと同じ趣味の法則に従ったのだ。統一性と多様性、比例と表現という偉大で必然的な原理は、両者において等しく輝いていた。ただ、両者において見いだされる諸性質は、表現される対象、芸術家に特有の気質、その時代の支配的な好みによって、優劣さまざまである。
ラシーヌは、彼の英雄がギリシャやローマの英雄ではないと非難された。私としてはこの点について彼を賞賛したいし、また間違いなく彼はそんなことを気にしていなかった。シェイクスピア自身は、古典主義者がなんと言おうと、はるかに古代人に似ている。彼の登場人物はプルタルコスの登場人物を下敷きにしている。彼のコリオラヌス、アントニウス、クレオパトラ、ブルートゥス、その他多くは歴史上の人物である。しかし仮に彼らが実在していなかったとしても、それは大した美点にはならないだろう。シェイクスピアが描きたかったのは人間であり、ラシーヌとシェイクスピアが描いたのは人間だったのである。ブッルス、ネロ、アグリッピナがタキトゥスから取られたからなんだというのか。私が、情念のあらゆる動きをともない、重大で詩的な行動に巻き込まれる彼らを見たいのは、劇場で、それもタキトゥスにもプルタルコスにも関心のない観客の前でである。そしてこの行動の方が彼らの実際の歴史よりも私にとっては重要なのである。
劇場で、偉大な悲劇を一歩一歩たどっていく奇妙な模造劇を何度も目にした。原始的な単純さがもつある種の色彩から着想を得たようだが、その色彩はもはやわれわれの風習ではなく、関心を引くようなものでもなかった。アメリカの野蛮人のために書かれた悲劇でさえ私たちをこれほど驚かせはしなかっただろう。ある才能ある作家が最近『オデュッセイア』を原作とする舞台を上演しようとしたとき、彼は、わたしの意見では、美しい韻文で表現された非常に興味深い作品を、私たちには思いもよらない風習を異様なまでに探求することによってだめにしてしまった。神的なるラエルテスの豚飼いには、興味をおぼえるというよりも驚かされた。オデュッセウスやテレマコスがペネロペイアの侍女たちに放った呪いの言葉や、無数の細かい風習についても同じことが言える。これらはオリジナルの物語では好奇心を刺激するかもしれないが、劇場では劇全体を台無しにしてしまうのだ。
古代人は劇に合唱隊〔コロス〕を導入したが、それは演じられている行為について思いをめぐらせにやってくる人びとを劇に登場させることにほかならなかった。私たちの考えでは、自分が見ているものから教訓を引き出すのは観客自身である。〔しかし古代ギリシャでは〕観客は自分自身でしなければならなかった省察をしなくてもよく、それどころか時間もかからず、あれこれ考えて劇中のさまざまな出来事や登場人物の成長に向けるべき注意を逸らされてしまうということもない。ギリシャ人はこの手法に慣れ親しんでいたが、これは〔場面〕転換の役割を果たし、また出来事のつづきを予感させるものであった。反対に、彼らは戯曲の文脈や場面の論理的なつながりから導き出されうる効果という、近代人が優れていた美点について、大抵の場合大して考察しなかった。
気の向くままに才能を翻弄し、少しのあいだすべてを決定してしまう流行は、つねにこの美という問題をかき乱した。その影響力は取るにたらないのだが、自分では不変のものにまで及ぶと信じている。美しいもののイメージはすべての人の精神の中にあり、今後数世紀に生まれる人たちも同じしるしによって美しいものを見分けるだろう。このしるしを、流行も書物も指し示すことはない。美しい行為、美しい作品は、即座に、魂の能力、おそらくはもっとも高貴な能力に呼応する。ある程度の教養〔文化〕があれば、美しいものによってひきおこされた快に、より繊細な何かを与えることが可能であり、あまり訓練されていない目にとっては混乱したものであるいくつかの美を明らかにすることができる。しかし、しばしば慎みのないこの教養はまた、判断を歪め、自然な感情を誤らせることもある。
何だって!美しいものという私たちの本性の欲求でありその純粋な満足は、特別な地域でしか花咲かないし、それを自分たちの周りに探し求めることは禁じられているだって!ギリシャ的な美だけが唯一の美だって!この不敬な言葉を広めた人たちは、美をどこにも感じるはずのない人たちであり、美しいものや偉大なものを前にしてふるえるあの内的な反響をみずからの内にまったく持たない人たちである。神は私たち北方の人間が好むべきものを生み出すことをギリシャ人だけに割り当てた、などと私は信じない。閉ざされた目と耳の持ち主、そして知ろうともせず、それゆえに賞賛しようともしないその道の方々にとっては残念なことだが!賞賛することができないことと自身を高めることができないことは比例している。えり抜きの知性には、学者がそのあいだに深淵しか見ないさまざまなタイプの完全性を、自らの嗜好の内で1つにまとめる機会が与えられている。元老院は偉大な人だけで構成されているというが、その元老院の前でならこの種の論争に長い時間はかからないだろう。あの芸術の生きた光、あの恩寵と力のモデル、すなわちかのラファエロ、ティツィアーノ、ミケランジェロ、ルーベンス、そして彼らのライバルたちが一堂に会したと想定してみる。彼らが一堂に会して、才能を分類し、自分たちの足跡を堂々とたどってきた者たちだけに栄光を分け与えるのではなく、互いに評価しあい、何世紀にもわたる称賛もそれを拒否しなかったと想定してみる。〔その時〕彼らは、ある共通の印、すなわち美を表現する力によってすぐにお互いを認識するだろう。だが各々は、異なる道を通ってそこに到達したのである。
ここに訳出したのは、19世紀ロマン派の画家として名高いウジェーヌ・ドラクロワ(1798-1863)の論考「美についての問いQuestions sur le Beau」(1854)である。ドラクロワは画家でありながら、日記や評論、紀行文など多くの文章を書いた作家としても知られるが、この論考では直接的に彼の芸術論が展開されている。特に、美がただひとつの理想に収斂するのではないこと、偉大な画家はみずからの気質にふさわしい表現によって優れた作品を生み出してきたことに関する彼の主張は、西洋の美術史上、芸術思想史上においても大きな意味を持つだろう。
ドラクロワの前世紀、18世紀のヨーロッパ美術に多大な影響をおよぼした『ギリシア芸術模倣論』(1755)において、著者のヴィンケルマンは、偉大になるための唯一の道は「古代人を模倣すること」であると述べ、例えば《ラオコーン群像》を「完全なる芸術の規則」だとした。ヴィンケルマンによれば、ギリシャ美術に現れているのは理想的、イデア的な美なのであり、芸術家にとっては古代の作品を模倣することこそがこのイデア的な美に到達するためにもっとも必要な課題であった。こうしたヴィンケルマンの熱っぽい主張は、ヘルクラネウム、ポンペイという古代の遺跡が相次いで発掘されるという考古学上の発見ともあいまって、ヨーロッパ中に古代ブームを巻き起こした(より正確にはヴィンケルマンの主張がこれら考古学上の発見を背景としていた)。ヴィンケルマンの思想は、フランスでは建築家であり考古学者、美術理論家でもあったカトルメール・ド・カンシーをつうじてジャック゠ルイ・ダヴィッドに影響をおよぼしたとされるが、このダヴィッドこそがフランスにおける新古典主義の大成者であり、やがて多くの弟子たちを育てることになる。
ロマン派と新古典主義の対立は、今日では両者の共通点や相互の連続性を語られることも多いが、1824年のサロンに展示されたドラクロワの《キオス島の虐殺》とアングルの《ルイ13世の誓い》、同じく27年の《サルダナパロスの死》と《ホメロス礼賛》を見れば、両者に様式上の違いが見出されることもまた事実であろう。
厳格な構成と正確な素描(デッサン)、なめらかな仕上がりをよしとする新古典主義的な美学と荒々しい筆触とほとばしる色彩、身をよじるような姿勢やダイナミックな構図によって特徴づけられるロマン派的なそれとの対立は、絵画において素描と色彩のどちらが絵画にとって重要かという17世紀以来の、さらにはルネサンス期のフィレンツェとヴェネツィアの対立にまで遡る「色彩論争」の再燃のような様相を呈するが、ドラクロワはこれについても幾ばくかの見解を述べている。いわく、「偉大な画家は皆、みずからの精神にふさわしい色彩や素描を用いた」のであり、「あらゆる時代の偉大な芸術家たちはこうした区別を一切気にとめなかったと考えてよい」。ドラクロワは、様式や技法による差異を作品それ自体の優劣と関連させて考えることはなかった。偉大な画家は「美を表現する力によってすぐにお互いを認識するだろう」し、彼らは皆「異なる道を通ってそこに到達した」のである。
こうしたドラクロワの主張は、すでに画家として高名でありながら、アカデミー会員という長年望んでいた名誉になお届かない彼自身のある種の自己正当化の試みともみなせるだろう。革命によるかつての王立絵画彫刻アカデミーの廃止から、フランス学士院内の「文学美術部門」を経て、王政復古期の1816年に新たに設立されたフランスの美術アカデミーは、パリの美術学校の教育と当時作品発表のほぼ唯一の場であった「サロン」を実質的に管理下に置くことで、フランスの美術界において支配的な存在であった。前者においては、ルネサンス期以来の歴史画/物語画を頂点とする絵画の序列を維持しながら、素描技術の習得や古代彫刻の模型や生きたモデルにもとづく人体習作を主とする教育プログラムを実践し、後者においては、例外はあるものの1863年までのほとんどの年において、審査員は美術アカデミー会員によって構成されていた。先に言及したカトルメール・ド・カンシーは、1816年以来、このアカデミーの終身書記となっている(1849年没)[9]19世紀フランスの美術アカデミーについては三浦篤「19世紀フランスの美術アカデミーと美術行政」『西洋美術研究』No.2、三元社、1999年を参照。。
したがって、ドラクロワがこの論考で論じた、美が均整のとれたギリシャ的な美に限定されないこと、伝統や学校の教えからではなくねばり強い修練から得られるインスピレーションによってこそ偉大な作品が生み出されること、偉大な作品は異なる方法で美を生み出すことなどは、アカデミーが推進する方向とは異なる自身の制作や作品に対する理論的な裏付けであり、自身の画業の振り返りでもあったはずである(ドラクロワがアカデミー会員に選ばれるのは7度の落選の後の1957年であり、しかも彼が望んでいた美術学校の教授ポストは与えられなかった)。
もちろんドラクロワも古典や過去の巨匠の作品を研究しており、また当時の多くの画家たちと同じく歴史画を重要視してもいたが、そのデビュー作が歴史画の主題としてメジャーではなかったダンテの『神曲』を主題とする《ダンテとウェルギリウス》(1822)だったこと、それに続く《キオス島の虐殺》、《サルダナパロスの死》の主題がいずれもギリシャ・ローマの古典古代ではなかったこと、古代美術の集まるイタリアには一度も足を踏み入れず、北アフリカを旅することで《アルジェの女たち》のような絵を描いたことなどには、彼の画業に一貫する矜持や旗幟がよみとれるだろう。またサロンの審査を通ったとはいえ、《サルダナパロスの死》の賛成票はぎりぎりの1票差であり、展示後も「デッサンがいい加減である」「遠近法が誤っている」などと批判されたほか[10]鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書メチエ、1995年、第5章参照。、ダヴィッドの弟子でもあったアントワーヌ゠ジャン・グロに「絵画の虐殺」と呼ばれたことなども広く伝えられている。
ドラクロワ以降、クールベやマネを経てやがて現れる印象派、そしてその後の20世紀における絵画表現の爆発的展開を見据えるとき、すでに美や表現の多様性を説いたドラクロワの本論考は時代の転換を準備するものだったとみなすことができるだろう。第二次大戦後、青のモノクロームで名を馳せたイヴ・クランがさまざまなところでドラクロワの日記に言及し、自身の日記にも「ひとりの印象派にしてドラクロワの弟子」と記していたこともここで申し添えておきたい。
訳出にあったっては、Eugène Delacroix, Œuvres littéraires tome1 : Études esthétiques, G. Crès, 1923を使用した。既訳としては戦前の植村鷹千代氏によるものがあるが(ドラクロア『藝術論』創元社、1939年)、かなり古いものですでに入手は困難であり、また味わい深い訳文ではあるものの原文と照らしあわせて正確な訳かといわれると首肯することはなかなか難しい。ここに新たに訳出するしだいである。間違いや不備などがあればコメントをいただければ修正したいので、優しくご指摘いただければ幸いです。
注
↑1 | この像は長く《ベルヴェデーレのアンティノウス》として知られ、第14代ローマ皇帝ハドリアヌス(在位117-138年)に寵愛されたアンティノウス像とみなされていたが、現在ではギリシャの神ヘルメスの像だとされている。またギリシャのオリジナル作品ではなく、紀元前4世紀アテナイの彫刻家プラクシテレスかもしくはその弟子筋によるブロンズ像を、ハドリアヌス朝時代(紀元2世紀初頭)に複製したものとされている。 |
↑2 | 三者とも古来外見が醜いとされてきた。 |
↑3 | この辺りの記述は、「ラファエロのカルトン」のうち、特に《ペテロに天国の鍵を託すキリスト》を念頭に置いているように思われる。 |
↑4 | これが具体的にどの作品を指すのか訳者は寡聞にして知らないのだが、参考までにルーベンスの《キリスト降架》の絵を挙げておく。この絵は制作当時から現在までアントウェルペンの聖母大聖堂に設置されているが、聖ワルブルガ教会にあった《キリスト昇架》とともにナポレオンによって一時期フランスに持ち去られていた。 |
↑5 | このエピソードとほぼ同じ話がディドロの「明暗法の検討」に記述されているが、ドラクロワがここで書いているものとは若干異なっている。ドラクロワの文章では、画家が描いたのはディドロの父親の肖像であるように読めるが、「明暗法の検討」では、ある若者が家族から父親の肖像をどう描いてもらうのがよいか相談を受けたとなっている。ちなみに刃物職人なのはディドロの父親であり、「明暗法の検討」に出てくる若者の父親は「鍛冶屋」となっている。ドニ・ディドロ「明暗法の検討」『絵画について』佐々木健一訳、岩波文庫、2005年、147頁参照。 |
↑6 | ロジェ・ド・ピール(1635-1709)はフランスの画家、彫版家、理論家。1670年代に展開された「色彩論争」においては、色彩派の論客として活躍した。一般に彼が「名誉評定官conseiller honoraire」として美術アカデミーに受け容れられた1699年に色彩派の勝利が決定的になったとされる。ここで言及されている「画家の採点表」は、彼が1708年に出版した『原理からの絵画講義Cours de peinture par principes』に収載されていたもので、そこでは16人の画家について、構図(composition)、素描(dessin)、色彩(couleur)、表現(expression)の各項目について点数がつけられていた。実際の点数は以下から確認可能。https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k5814705x/f405.item.zoom |
↑7 | ドラクロワの記憶違いか。実際にはミケランジェロのデッサンは17点である。 |
↑8 | ティツィアーノは構図12点、素描15点、色彩18点、表現6点、ルーベンスは構図18点、素描13点、色彩17点、表現17点である。合計点はルーベンスとラファエロが65点で最も高かった。 |
↑9 | 19世紀フランスの美術アカデミーについては三浦篤「19世紀フランスの美術アカデミーと美術行政」『西洋美術研究』No.2、三元社、1999年を参照。 |
↑10 | 鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書メチエ、1995年、第5章参照。 |
執筆者:渡辺洋平
アイキャッチ画像:ウジェーヌ・ドラクロワ《サルダナパロスの死》1827年