潘逸舟は、映像、パフォーマンス、インスタレーション、写真などのメディウムを用いて活動を行う芸術家である。1987年に上海で生まれ、9歳のときに上海から青森県弘前市へ移住したという経歴を持つ彼は、移民や国境などの社会的事象を主題とした作品を制作している。
彼の作品ではしばしば、移民や労働、国境などの社会的事象を自然と重ね合わせ、そこに個としての身体を介入させる、という構図が採用される。例えば国際芸術センター青森で展示された《揺れる垂直》(2016)は、「『風によって揺れ続ける販売用の垂直に伸びた植林の映像』と『人々が挙手をし続け、その疲労で揺れている腕の映像』の2つの映像からなる作品」[1]潘逸舟×三木あき子対談「移動する身体と風景と抵抗について…」弘前れんが倉庫美術館、2021年1月。https://www.hirosaki-moca.jp/exchange/01-han-ishu/tsugaru-mawaru-table/projects/han-miki-dialogue/(最終閲覧日:2022年1月29日)であった。また2018年新潟県新潟市で行われた「水と土の芸術祭」の展示作品《波を掃除する人》は、人間の手でコントロールすることは不可能であるにもかかわらず、幾度となく押し寄せる波を掃こうと試みる人物を映したものである。これらの例が示す通り、彼の作品は、雪山や海などの広大な自然風景が巨大なシステムとしての社会を暗示し、そこに個としての身体が巻き込まれる様を提示するものといえるだろう。
本テクストが着目するのは、巨大なシステムとしての社会に否応なしに巻き込まれるものとしての身体が、潘の作品においていかに機能するのか、という点である。さらにいうならば、以下が本テクストでの問いとなるだろう。社会問題や政治的事象を主題とする芸術が隆盛する今日、「身体」はどのような役割を持ちうるのか。
参加型アートにおいて、身体は重要な位置を占める。芸術家以外の人間が作品に参加する場合、しばしば身体が伴うからだ。身体が重要な役割を果たす参加型アートの一例として、クレア・ビショップが評価するサンディエゴ・シエラの実践を挙げておこう。シエラの《4人の人々に彫られた160cmのライン 160 cm Line Tattooed on 4 People》(2000)は、ヘロイン中毒のセックス・ワーカーを雇い、彼女らの身体にタトゥーを入れる様子を撮影した映像作品である。無意味な入れ墨が身体に刻まれることで、彼女らは一包のヘロインが購入できる金額(約12,000ペセタ、約67ドル)を受け取る。それゆえに不毛な入れ墨が刻まれる彼女らの身体は、金銭で売買され、搾取される彼女らの日常的な仕事を暗示させるものとなる。
極めて問題含みの作品であるが、ここで主張したいのは、《4人の人々に彫られた160cmのライン》における身体は、彼女らが置かれている不当な社会的立場に還元される、という点である。私たちは入れ墨が刻まれる彼女らの身体、その痛みを、労働搾取のメタファーとして受け取る。しかし、そのとき彼女らが感じる痛みの感覚は、どこへいったというのか。
これに対し、潘の作品における身体は、《4人の人々に彫られた160cmのライン》のそれとは異なる。というのも、潘の作品において「身体」は、社会のメタファーとして機能するのみではないからだ。
それは潘の作品にある程度通底する特徴のようにも思われるが、今回は2018年の「水と土の芸術祭」で展示された、《痛みを伴う散歩~漢字の意味による足つぼマッサージ~》(以下《痛みを伴う散歩》と表記)を事例として扱いたい。この作品は、日本庭園と中国庭園を併せ持つ天寿園の、中国庭園側に展示された参加型アートである。一文字ずつ漢字が書かれた石が埋め込まれたスペースが用意されており、観客はこの石の上を歩くことによって、中国庭園を眺めながら足つぼマッサージを行うことができる。
足裏は内臓や各器官に繋がるといわれる末梢神経が集中しており、足裏の痛みを感じる場所によって身体の不調を確認することができる。公式ガイドブックには、痛みと各器官との繋がりを図解する足つぼ効能図を思わせるドローイングが掲載されている。
実際に展示されたインスタレーション作品を確認する前に、このドローイングを見ておこう。ドローイングには左右の足裏が描かれており、左右対称に、各つぼを指し示すため色が塗られている。右足には、親指は頭痛、その他の足の指は自律神経、拇指球は甲状腺といった具合に、各器官や不調の症状が記されている。一方左足には、足の指は自己同一性、拇指球には秘密、またそれ以外の箇所には文化、故郷、歴史、権力など、一見すると身体とは関係のない語が並んでいる。
左右の単語に関係性を見出すこともできないわけではない。例えばひざには「旅」が、胃には「食費」が重ね合わされている。しかし、生殖腺には「時間」が、肩には「権力」となると、その間につながりを構築することは困難になる。とはいえ、いずれの場合であっても、このとき示唆されているのは、身体を生物学的、医学的見地からだけではなく、社会的構築物として捉えることであるように思われる。
インスタレーションに戻ろう。2018年「水と土の芸術祭」のコンセプトは、「メガ・ブリッジ─つなぐ新潟、日本に世界に─」であった。本芸術祭のアート・ディレクター塩田純一が示唆する通り、このコンセプトは中国、韓国、ロシアと近接する新潟県の地政学的位置[2]近藤ヒデノリ「新潟市「水と土の芸術祭2018」MEGA BRIDGE—つながる。出会う。交ざり合う。」Local.Biz、2018年5月。https://local-biz.jp/news/2400(最終閲覧日:2022年1月29日)を前提としたものと考えられる。中国庭園と日本庭園が併存する天寿園は、このコンセプトを暗示する場として機能するといえるだろう。
《痛みを伴う散歩》のキャプションでは、足指マッサージを体験しながら庭園の風景を楽しむことが勧められている。ドローイングにおいて痛みと社会的諸要素との繋がりが示唆されていたことに鑑みれば、観客の痛みは風景を眺めることによって、新潟県の地政学的位置をも暗示する中国庭園という文化的空間に重ね合わされると考えられるだろう。
ところで、あなたは足つぼマッサージを体験したことがあるだろうか。痛みには個人差があり、人によっては立てないほどの激痛に見舞われることとなる。こうなれば、風景を眺めるどころではない。自身の身体に走る激痛は、外部との繋がり――ここでは中国庭園という文化装置――を遮断するように働くのである。痛みは、社会から限りなく切り離された自己の身体性を自覚させるものとなる。
むろん、人によって痛みの度合いは異なる。それゆえに、上述したような強烈な痛みを感じなかった観客の場合、痛みを感じながらも風景を眺めたり、ほとんど痛みを感じず、石の硬さを足裏に感じながら歩みを進めたりすることもできただろう。したがって人がどのように風景を眺めるかは、個人の痛みの度合いによって規定されるものとなる。しかし強調しておきたいのは、この作品における観客は、社会によって規定されるではなく、個人的な感覚に基づいて社会との関係を構築するという点である。
社会との関係が常に問われる今日の現代アートにおいて、身体は社会的、政治的コンテクストに符合するものとして理解される傾向にある。こうした中で、潘の作品は、改めて個人的な身体、あるいはその感覚にフォーカスするものと理解できるのではないだろうか。そのような身体感覚こそ、作品に参加する人々と社会の関係性を問い直す可能性が賭けられているように思われてならない。
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注
↑1 | 潘逸舟×三木あき子対談「移動する身体と風景と抵抗について…」弘前れんが倉庫美術館、2021年1月。https://www.hirosaki-moca.jp/exchange/01-han-ishu/tsugaru-mawaru-table/projects/han-miki-dialogue/(最終閲覧日:2022年1月29日) |
↑2 | 近藤ヒデノリ「新潟市「水と土の芸術祭2018」MEGA BRIDGE—つながる。出会う。交ざり合う。」Local.Biz、2018年5月。https://local-biz.jp/news/2400(最終閲覧日:2022年1月29日) |
執筆者:松本理沙
個人サイト:https://risamatsumoto.weebly.com
アイキャッチ画像:潘逸舟《痛みを伴う散歩~漢字の意味による足つぼマッサージ~》新潟県、2018年。筆者撮影。