初国ライブ上映会会場風景

映画の原初に触れる——映画『初国知所之天皇』激生ライブ上映


 若干17歳にして自身の監督作品『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(1968)により第1回東京フィルムフェスティバルグランプリ・ATG賞を同時受賞、“天才映画少年”たる名声を得た原將人はらまさと(当時は原正孝名義)。20歳で大島渚監督『東京戦争戦後秘話』(1970)の脚本を担当したのち、1973年に発表した『初国知所之天皇はつくにしらしめすめらみこと』により、“天才”の評を確固たるものとした。マルチスクリーンやライブナレーションを駆使した前衛的手法により、従来的な映画観を刷新し、瀬々敬久監督など多くの映画人に多大なる影響を与えた記念碑的作品である『初国』。2018年 7月28日に原の自宅の火事により焼失した同作のフィルムが、この度復元された。

 原は2020年度、「京都市文化芸術活動再開への挑戦サポート交付金」の採択を受け、イマジカラボに保存されていたネガから16mmポジフィルムとHDリマスター版を制作し、『初国 』を復活上映。映写機での上映やオンライン配信など多彩なプログラムが実施された。そのうち、リマスター版に新たな編集を加え、発表当時に近しい上映形態で披露された「ライブ上映」に取材した。


 訥々とつとつとした口上、切々たる朗唱、そして刻々とその表情を変化させる即興的合奏――。昔日の日本を映し出した無音の映像が投影されたスクリーンの前で、それぞれの映像に生気を吹き込むかのような多彩なパフォーマンスが3人の男たちにより繰り広げられる。

 ルーメンギャラリー(京都市下京区)で開催された「映画『初国知所之天皇』激生ライブ上映」(2021年3月14日)を観劇して即座に思いあたったのは、それが、サイレント映画の活弁に近しい上映形態を採っているということだ。監督の原自身によるナレーションの口演・数曲の挿入歌の生演奏を、島田篤によるキーボードと遠藤晶美によるエレキギターが巧みに音色を探りながらサポートする――それは、一見すれば、アナクロニックな身振りには違いない。しかし同時に、ライブという一回的な行為と、複製技術の賜物である映画が有する反復性とが、鋭く拮抗する場が立ち上げられていることにも、気づかずにはいられない。ここには、「映画」に対する、原の明確な批評的意識が示されている。

 『初国』それ自体、革新的な映画論としての結構を持っている。1971年、北海道を起点に、馬にまたがる青年が東征ならぬ“南征”を通じて天皇が統べる国・日本の起源を探る16mm劇映画を制作していた原。資金難による途絶ののち、自身が8mmカメラを手にロケ予定地だった記紀神話ゆかりの地を経巡るロードムービーとして撮り継ぐことで、一本の作品として結実させたのが『初国』だ。1973年に公開された同作では、旅の道中、未完に終わった16mm作品に対する自省を端緒に前景化してゆく「映画とは何か」という問いが、次第に「国家とは何か」という問いにオーバーラップしてゆく特異な思考プロセスが生々しく露呈された。若干22歳の新鋭による、映画の存在論と国家論をシームレスに接続させた鮮やかな手つきに、映画業界一同が瞠目した。

 『初国』は、映画史的事件として記憶されてきたがゆえに、そのラディカルな思想性を証し立てる諸要素がことさら注視されてきた。例えば、自己否定の連続で傷心しきっている一映画青年が、天孫降臨の伝説が残る高千穂の峰にて、自らの非力さを絶対的に肯定することによって「自分こそが近代国家日本における『初国知所之天皇』」であるという認識に到達する、あの名高いくだり。ともにイメージの高度な統御を要する、映画と国家。それぞれにおいて絶対的な権力を揮うものとして、映画監督directorと天皇emperorは、相似的な存在であることを、原は剔抉てっけつしたのだ。この、未聞のアナロジーの、強烈なきらめき。この映画の思想を読み解こうと思う者は、このシーンを頂点として『初国』の意味体系を構造化してしまうだろう。 だが、ともすればそれは大変な野暮なのではないか?

 ライブ上映に身を浸すと、そうした思いが湧き上がってくる。8mmフィルムの、銀粒子で霞がかった映像の中に、赤い背負子しょいこをおぶった旅装の原青年が陽光を浴びて浮かび上がる。地方都市の街角で、重荷を路肩に下して休息するつかの間。田舎道でヒッチハイクを試みている一刻。こうした、作品のトーンを形作っている何気ない道行きの光景の数々。そのそれぞれを地下水脈のように貫いている、若き原の“流離の思い”を、監督が肉声で掬い上げる。島田と遠藤が、時に古楽器のように柔らかな、時にノイズのような切迫感のある音色を奏で、感情の綾を際立たせる。かような、現在の原が過去の原とスクリーン越しに対峙し、「今」「かつて」間の絶対的な懸崖をもろともせずに、47年前に繰り広げられた己の精神のドラマを再演すべく静かに昂ってゆく過程の、あらゆる瞬間が心に突き刺さる。この、遥かさにも哀切さにも通ずる、いわく言いがたい情感を観者のうちに喚起させるもの――これこそが、「物語」や「主題」「思想」よりはるかに先だって映画を成立させている、映画の基体なのかもしれない。映画の原初に立ち会う、その奇跡の中をたゆたう。それ以上は何も望むまい。


執筆者:旦部辰徳(文筆業)。早稲田大学第一文学部卒。広告会社勤務後、京都大学大学院人間・環境学研究科にて文学・美学を学ぶ(人間・環境学修士)。ストリートビューでの旅と、野良猫探しを日課としつつ、短歌・小説を執筆。その他、荻野NAO之写真展「太秦」キュレーション等。

アイキャッチ画像:「映画『初国知所之天皇』激生ライブ上映」会場内風景/(c)旦部辰徳


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監督—大島渚、 脚本—原正孝(原將人)/佐々木守、音楽 —武満徹、制作—創造社/日本アート・シアター・ギルド
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