ミカンを味わうということは、ミカンを口に入れる前から始まっている。皮が身に引っ付きはがしにくいミカンのほうが、皮をむきやすいミカンよりも糖度が高く味が良いとのことである。しかし実際にミカンを食べるときには、皮が中々むけない時点でそのミカンはもうあまりおいしくない。すんなり皮がむけて、白いやつも一緒にはがれていくミカンこそが、実際にはおいしく感じられる。食事では皿の見栄えや同席者のマナーから味わいが感じられ始めている。食べるという動作一つとっても、その意味するところは固定されておらず、伸縮するものである。
同様のことは、動作の認識だけでなく、物体の認識についても言える。首はどこから首なのか。鎖骨の上からなのか、第〇頸椎から上なのか。頸椎間の軟骨を首に含めていけないのか。うなじを頭と見るか首と見るかは話者の切り取り方に大きく依存する。喉と首の境目はどこにあるのか。小説家が鼻頭のみを鼻と呼べば読者はそれに従い、眉間までを鼻と呼べばそれに順応する。
このように、時間的にも空間的にも、元より連続的な世界のどこからどこまでを切り取るかは認識者の自由である。ただしそれは逆のことを意味しない。即ち、任意に切り取られた認識が繋ぎ合わせられて一つの世界が成立しているのではない。
人間は文法を伴う言語を操りながら生活しており、言葉の意味でもって世界を認識している。そこから勢い、動作や行動というものはそれに対応する固定された動詞のように一つのものと考えてしまいがちかもしれない。「歩く」「椅子に座る」「食べる」などの動作が組み合わさって一つの生活になっている、と。また名詞に関しても、名詞にはそれに対応する別々の対象が存在すると考えがちであるかもしれない。しかし実際には、人間の頭と首は皮膚で繋がっており、分離できない。頭は首を介して肩につながり、そこから胴体も続く。もしこれらの動詞や名詞が固定されたもので何らの伸縮性もないならば、必ず行為と行為の間、ものとものの間に隙間ができる。「歩く」と「椅子に座る」の間はタイル画の如くバキバキに亀裂が入り、「頭」と「首」は球体関節人形の如く脱着自在なものとなる。
こうしたステンドグラスのような認識は、例えば昔話に認めることができる。昔話の登場人物は造作もなく手足を切断する。シンデレラの姉はかかとを切り落としても出血していることに気づかない。昔話では語られたことがすべてであり、それ以上のことは生じていない。表現されたことに奥行きはなく、平面的かつ固定的に成立している。「平面性が決定的に一貫しておこなわれると、昔話は現実から離反した性質をおびてくる」[1]マックス・リュティ著、小澤俊夫訳『ヨーロッパの昔話 その形と本質』岩波書店、2017年、61頁。。そのため、現実的に見れば明らかにおかしいことでも、昔話の登場人物たちは一向に気にしない。このちぐはぐさが昔話を「現実から離反」させている。現実とはもっと、粘土のようにしなやかなものなのだ。
滑らかな現実を成立させるためには、「歩く」と「椅子に座る」の間を、「椅子の背に手をかける」「椅子を引く」「椅子の前に回り込む」…などといった固定化された動作を数限りなく詰め込むだけでは足りない。というのも、固定的な動作の間には無限に隙間が空き続けるからだ。そのため実際には、そういった行為はすべて「椅子に座る」という動作・動詞の中に混ぜ込まれる。「座る」という動詞・動作が引き伸ばされ、その周囲の動作も含意するようになる。椅子まで歩き、椅子を引いて座るという一連の動作が一つの滑らかな行為として認識される。このような仕方で引き伸ばされた認識だからこそ、上述のように、任意に切り取ることができるのだ。一つの認識の中に多くの要素が練りこまれているため、どこを切り取るも自由である。
しかしそれにしても、認識というものは思いの外伸びるらしい。もっと伸ばし続けられるのではないか。食べるという動作はまず、口にものを入れる以前から始まり、味わえなくなった時点で終わるというところだろうか。これを更に引き延ばす。すると、食べ物がのどを通り、胃に収まる。胃酸で食べ物が溶け、腸で吸収され、便を排泄している間もまだ食事中と言えるかもしれない。呼吸が息を吸うことと吐くことであるように、食事も食べ物を摂取して排泄することであると見るのである。食事という動作が私を飲み込む。顎についての認識も伸縮し始める。唇や歯だけに留まらず、もみあげを通してこめかみに到る顎。のどを通り大胸筋を突き抜け股間を回って頭に回帰する顎。私の動作は食べるだけ、私の身体は顎だけである。
いいぞ、ようやく自分の現実的な姿が見えてきた気がする。
関連書籍
注
↑1 | マックス・リュティ著、小澤俊夫訳『ヨーロッパの昔話 その形と本質』岩波書店、2017年、61頁。 |
執筆者:S.T.
アイキャッチ画像:葛飾北斎『北斎漫画』第12編より
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