往々にして物語の登場人物は自らが創作物の登場人物であると気づいていない。彼らは状況を俯瞰する視点、いわゆるメタ視点を持っていないのだ。その点で読者はつい、自分が登場人物よりも多くのことを理解している気になってしまう。しかし実際のところはそうではない。メタ視点とは必ずしもすべてのことを見渡せる立場ではない。
『+チック姉さん』という漫画の一場面に次のような話がある。ある日、主人公たちは「ひっくり返し婆」という怪異に遭遇する[1]栗井茶『+チック姉さん 第11巻』ヤングガンガンコミックス、スクエア・エニックス、2017年。。ひっくり返し婆は様々なものをひっくり返すことができる。車をひっくり返すことにはじまり、履いているパンツを脱がすことなくその裏表をひっくり返し、果てには昼夜さえひっくり返す。「自分にひっくり返せないものはない」と豪語するひっくり返し婆に対して、主人公が闘いを挑む。「ワタシマケマシタワ」「私負けましたわ」。上から読んでも下から読んでも変わらない回文によってひっくり返し婆は敗北することになる。
さて、ここで考えたいのは、なぜひっくり返し婆は自らのセリフをひっくり返せなかったのか、という点である。というのも、読者からしてみれば、回文だろうがなんだろうが、「ワタシマケマシタワ」をひっくり返すことなど造作もない。手に持っている本の上下をひっくり返すようにセリフだけをひっくり返して「」にすればよい。それにもかかわらず、ひっくり返し婆はそうしない。(これが話として面白いか否かという点は度外視して)この理由を考えるならば、それはどのようなものなのだろうか。
そこで考えられるのが、「」は主人公とひっくり返し婆に認識できないひっくり返し方をしているから、というものだろう。読者には漫画の登場人物が視覚的文字によって発話していることが分かっているが、登場人物自身は必ずしもそうではない。そしてひっくり返し婆がこのメタ視点に気づけないのであれば、「」でもって「ワタシマケマシタワ」をひっくり返したと認められない。従って、このメタ視点に立てなかったから婆は敗北せざるを得なかったのだ、と考えることもできるだろう。
しかし以上の論点でもって、物語の登場人物が読者のメタ視点よりも視野が狭いと考えるのは早計であろう。というのも、登場人物たちの発音を視覚的に見るという読者のメタ視点では理解することのできない場面があり得るからである。
その一例が、同書に登場する、とある変質者のセリフである。彼は「⊂=ᅇってして~‼」だの「⊂=ᅇで野球しよ~‼」だのと発話する。しかも他の人物もそれをマネすることができている[2]同上、128頁以下。。読者にはこれらのセリフは視覚的に理解することはできても、聴覚的にいかなる発音がされているのかが知りえない。漫画の中で生きる彼らには、読者には聞こえない音を発音することができている[3]同様の例として、闇の悪魔が発する声などが挙げられよう。藤本タツキ『チェンソーマン 第8巻』集英社、2020年、77頁。。ここにメタ視点の限界がある[4]以上の論点を言語論的に説明しているものとして、永井均『マンガは哲学する』岩波書店、2009年、15頁以下。。
なぜ登場人物たちは「⊂=ᅇ」が理解できて「」が理解できないのか。両者の間に何か違いがあるのかもしれないし、単にひっくり返し婆の機転が利かなかっただけなのかもしれない。しかしそれらの発音を聞き知ることのできない読者には、そのどちらであるのかを知る術がない。メタ視点に立つ場合、せいぜい「作者の設定次第だ」程度のことしか言えない。しかし視覚的なセリフが聴覚的に発音されているという奇妙な現場を、メタ視点に立つ読者は聞き逃さざるを得ない。作品世界には、メタ視点では成立しえない奥行きが広がっている。
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注
執筆者:S.T.