以前に私は、「私の秘密基地」という文章を書いた。今回は、その文章とのつながりを少し意識しながら、「大人の隠れ家」というタイトルで、同じく個人的な記憶を記してみたい。
さて、「大人」と言われる年齢の人びとにとって、「子供」の秘密基地に相当するものは、なんといっても大人の隠れ家ではないだろうか。一日の激務を終え、帰途につく前に、ふらり立ち寄り、その日の疲れを癒してくれる自分だけのとっておきの場所。それが大人の隠れ家というものだろう。
現在、私は、BS-TBSで火曜夜10時から放送されている「町中華で飲ろうぜ」という一時間番組を楽しんで視聴している。現在、コロナ禍ということもあり、この番組を観ることで、ちょっとした飲みに行ったような気分を味わっている。この番組のオープニング映像では、東京スカパラダイスオーケストラによる口笛だけのインスト曲「君と僕」をバックに、仕事帰りの「大人」が町にあるなじみの中華料理店で一日の仕事の疲れを癒す光景を描いた映像とナレーションとともに「俺たちの聖域 町中華」というテロップが映し出される。ちなみに、この番組では、出演者らが「町中華」と呼ばれる個人経営の大衆中華料理店でビールを飲む際に、なぜか生ビールではなく、必ず瓶ビールを注文し、その大瓶の容量である633mlのことを「大人の義務教育」と呼んだりしている。大人の一日の疲れを癒す隠れ家的な場所として、居酒屋やバーなどと並んで、町中華も立派にその役目を果たしている様子がこの番組からうかがえる。
私は、今は、研究や教育を行う環境に身を置いているが、大学(学部)を卒業してすぐに、一般企業に入社し、10年以上もの間おもに営業職の仕事に就いていた。その時分に、どういうわけか自分自身にとっての隠れ家のような常連の店を持ちたいという願望を無性に抱く時期があって、勤務中のランチタイムにしばしば訪れる飲食店も含めて、自分がよく行くお店をいろいろノートに書き出したりしながら、その候補を吟味するといったことをやっていたことがある。日々の業務に忙殺されて、オンとオフの切り替えのタイミングで、ほっと一息つくことのできる自分だけの場所が欲しいといった心情の現れだったのだろうか。
遡れば、当時そのような願望を抱く直接的なきっかけと言ってよいような出来事がある。新卒後入社数年の時期に、当時京都で勤務していた友人とともに、京都市内にある老舗のバー(カタカナ四文字の店名の有名なお店)に入ったことがある。そのバーは当時でも十分に年季の入った雰囲気があり、一見客お断りではなかったが、それに近い重厚な趣きが感じられた。店に入ってしばらくして、どうやら私は目立つ姿勢でカウンターに肘をついていたようで、バーのマスターからそのことをたしなめられた。その後しばらくして、着飾ったわけではない、むしろどちらかというと薄汚れた格好をした、おそらく近所に住む一人の常連客がやってきて、私の右隣りに腰かけた。すると、私に注意をしたマスターは、無言でいるその常連客に対して、「いつものでよろしいですか?」などと言って話しかけると同時に、ルーティン作業のように(おそらく私の記憶では、いくつかの新聞の中から)毎日新聞を手渡し、そのしばらく後に、ウイスキーの水割りらしきものをその客に差し出した。私がそのバーを訪れたのはそのとき一回きりで、その際、私は注意を受けたこともあり、そんなによい気分になったわけではないはずだが、よそ行きの恰好をしたわけでもない常連客が重苦しい雰囲気のバーを普段使いしていることにいたく感心したのか、いつかは自分もそのような個人的な居場所を持ちたいと思わされてしまったようである。
それから数年後、ようやく私は自分の居場所と言ってよいようななじみの店を持つことができた。私が当時勤めていたのは広告会社だったが、以前同じ会社に勤めていた先輩に当たる人物が趣味でバーを経営することになり、そのバーに常連客として通うことになった。大阪梅田のとある繁華街の一角にある古い雑居ビルの一階にある階段下の空きスペースを利用した文字通り猫の額のような店だった。
そのバーのマスターとはそれまで何度か親しく仕事をした仲だったということもあり、私は、仕事終わりに、ほっと一息をつくことができる居場所をようやく持つことができた。京都の老舗バーの常連客のようではないが、私が(冗談半分に)「いつもので」と言えば、カウンター越しにストーンズ・バックが出てきたし、終電を逃すことがあれば、バーの椅子を並べて、そこに横になって朝まで時間をつぶすことも許された。
そんなある日、仲のよい同期社員を含む同僚と一緒に、そのバーで飲んでいたときのことだ。同じくそのバーの常連らしいが、私はそれまで見たことのない客と同席することがあった。その客は、私や同僚が一緒に仕事をしたことがあったわけではないが、私たちと同じ業界に属する個人事務所を経営する年配の男性客だった。
その年配の男性客は一人で店に来ていたようだったが、そのような猫の額のような広さのバーということもあり、話し相手が欲しかったのか、彼は、途中から隣にいる私たちにちょっかいを出してきた。酒に酔うと部下にやたら説教をしたがるややこしい質の人がいるが、彼もそのようなタイプの人物だったのか、不幸なことにそのとき彼の部下がその場にいなかったため、彼による若者一般に対する説教をおもに私が聞かされるはめになった。その当時、私は少なくとも件の経営者にとっては若者に相当しており、最初は、話を合わせていたが、「今の若者はなにも考えていない」などというよくわからない苦情を聞かされているうちに、次第に私は我慢がならなくなった。仕事の疲れを癒そうと思って、自分がほっと一息つくための居場所に来ているのに、よくわからない人物からよくわからない苦情を聞かされることに対して、言いようのない納得のいかなさが沸き上がってきたのである。
そこで、若者の代表として話を聞かされていた私は、「少なくとも自分はなにも考えていないわけではない」ことをかなり喧嘩腰になって彼に伝えた。それなりの時間、彼に対する応戦をしていたのだろう。途中で、私の隣に座っていた会社の同期が、「落ち着け落ち着け、そんなに怒るの、珍しいな」などと言いながら、私をなだめた。同期入社の彼は、ふだん私がそこまで興奮するところを見たことがない様子で、たいそう驚いていたようだった。
私がそのような反応を示したことにより、おそらくその経営者はその場で少しおとなしくなったように記憶している。今となっては、そのようなたんなる酔っ払いの戯言に対しては、それこそ大人の対応をして、まともに付き合う必要はなかったという気がしている。しかし、そのときの私は、自分が大切に思っている神聖な場所に土足で踏み込んで来られたような気がしたのである。
やはり「俺たちの聖域」である大人の隠れ家には侵してはならない領域があるというものだろう。私が長らく務めた会社員の身分を離れて、研究や教育の道に進んで以降、残念なことに、私はそのような自分の居場所に足を踏み入れることはできていないし、また新たな隠れ家を見つけることもできていない。
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執筆者:山川仁
奈良県桜井市出身。哲学研究・大学非常勤教員。
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アイキャッチ画像:photo by てんなお