戦後の日本画には名字に「山」が付く作家が多い。官展の流れを汲む日展には3山ありと言われた。国民画家とも言われた東山魁夷(1908- 1999)に、杉山寧(1909‐1993)、そして髙山辰雄(1912- 2007)。他にも西山英雄(1911‐1989)、大山忠作(1922‐2009)、山田申吾(1908‐1977)、山口華楊(1899‐1984)などが活躍した。在野の日本画美術団体には平山郁夫(1930‐2009)に、加山又造(1927‐2004)、横山操(1920‐1973)、山本丘人(1900‐1986)など、よくこれほど「山」の付く作家が同時代に集まったと思う。当時は名字に「山」が付けば大物になるという冗談も言われるほどだった。とりわけ日展の3山の人気は凄まじく、彼らの作品が一堂に並ぶ日展の第7室には大勢の鑑賞者がひしめき合い、作品の下半分は人だかりで見る事が叶わず、作品の上半分しか会場では見る事が出来ないほどだったとか。
現在でも3山の人気は健在で、美術館や百貨店などで彼らの作品を見る機会は多い。また2014年には杉山寧の大型絵画がオークションで予想落札価格の5000万~8000万を大きく超えた1億8000万で落札され話題となった。戦後に画壇で活躍した物故作家達の作品価格が下がり続けている中で驚くべき事だった。
3山は歳が近く、ともに東京美術学校(現在の東京藝術大学)の卒業生だ。日展を作品発表の軸としていたこともあり共通点が多いが、杉山寧に関しては他の2人と大きく異なる。戦後から注目が集まった東山魁夷と髙山辰雄に対して、杉山寧は戦前からその作品が高く評価されていた。1932年、34年と帝展で2度の特選を受賞している。今日の日展の前身である帝展には、入選するだけで非常に名誉なことで、特選受賞となれば専業画家としてやっていけた。32年の特選に関してはまだ大学在学中で、天才の出現として大いに注目を集め、34年の2度目の受賞で天才画家としての評価が確定する。杉山寧は戦前、戦後一貫した表現スタイルで人気を博した作家ではない。戦前は日本画の線に比重を置いた薄塗表現で、戦後は描く対象を面でとらえ、岩絵の具の厚塗りの洋画風スタイルで、そして抽象表現の波が日本の美術界に入ってきた際には、完全な抽象画へとその作風を変えている。共通して言えることは、抜群の描写力と考え抜かれた構図、そして丁寧な筆運びによる作品の完成度の高さだ。
余談ではあるが杉山寧の代表作『穹』(1964)を直に見たときの感動は今でも強く私の中に残っている。戦後に流行った厚塗り表現が極に達したような作品だが、絵の具を厚く塗れば塗るほど絵の奥行が失われるような愚は犯していない。画面には月明りに照らされたスフィンクスが真正面から描かれており、作品の大きさと相まって崇高さすら感じさせる。
日本画の特質を、線、余白、膠を使用することによる顔料の発色の良さとすることに異論はないが、岩絵の具を厚く塗り重ねる洋画風日本画におけるマットで重厚感ある絵肌も紛れもなく日本画独自の特質と言って良いと思う。そもそも「日本画」は支持体である絹、紙、そして顔料の多くを中国絵画から受け継いでいるため、戦後に流行した人造の岩絵の具こそが唯一日本独自の顔料であり表現だと言える。『穹』に限らず杉山寧は岩絵の具の粒子、鉱物質感を際立たせるために、絵の具に他の物質を加えたり、特注の凹凸のある和紙を使用するなど独自の表現を試みている。自身の作品集を制作する際に『私の絵を撮るときには、平面を撮影する気持ちでなく、立体に取り組むときのように考えてほしい』とカメラマンに注文したエピソードからも、杉山寧がいかに絵肌、つまりは岩絵の具の凹凸が生み出す、光を繊細に反映する粒子の輝く効果にこだわっていたかが伺える[1]『画作の余白に』杉山寧著、美術年鑑社、1989年、86-87頁。。
3山の中で杉山寧が他の2人と大きく異なる点としてもう1つ、日展の出品回数の違いが挙げられる。杉山寧が日展に自身の作品を出品したのは32回(初出品、初入選から一度の落選もない)と他2人の半分ほどの回数しかない。理由の1つ目としては30代の約10年間を肺結核の闘病によって作品を発表することが出来なかったこと。2つ目の理由は1976年に日展出品そのものをやめたためである。杉山寧は当時まだ67歳、日展の常務理事を務め、芸術院会員に選ばれ、文化勲章を受章、文化功労者と認められ、名実ともに日本の美術界の頂点を極めた途端の日展退会であった。杉山寧自身が日展をやめた理由について直接言及している文章等は読んだことはないが、一説には娘婿である三島由紀夫の割腹自殺が影響しているとも言われている。
いずれにせよ、3山の残り2人である東山魁夷、髙山辰雄とくらべて杉山寧は表舞台に立っていた時間も短く、その人となりを知る機会が少ない。漠然と天才画家というイメージが付きまとう彼の実像に迫る手掛かりとして『画作の余白に』を紹介したい。もともと1冊の本にまとめるために書かれたものではなく、1932年から1988年の時事雑感や作品制作、展覧会批評、旅行など52編のバラエティーに富んだショートエッセイと、1956年4月号から1986年12月号まで務めた『文藝春秋』の表紙絵について、こちらも短めの感想で構成されている。如何せん本書が杉山寧の唯一の著書であるため、杉山寧に関連する展覧会や、作品解説等でたびたび参照元として取り上げられることが多いが、たいていの場合は作品に言及した部分のみが抜粋される。寡黙な評伝通り本書でも雄弁に自身について書かれている部分は少なく、文体も癖のない(どちらかと言えば文体は固いがそれがまた杉山寧らしい)記述の端々から立ち現れてくる一人の人間としての杉山寧像に思いを馳せながら本書を読んでほしい。読み終った後では少しだけ杉山寧とその作品が身近に感じられるだろうから。
■追記
日展及び団体展の第7室については新潮社出版の田中譲著『近代日本画の人脈』(1975年)に詳しい。
1964年の3山の日展出品作品はそれぞれの代表作に必ず挙げられる作品である。展示会場で向かって中央に杉山寧の『穹』。そして右側に東山魁夷の『冬華』。左側は高山辰雄の偶然にも杉山寧と同題名の『穹』。髙山辰雄の娘・髙山由紀子著『父 髙山辰雄』には当時、展覧会会場で杉山寧の妻・元子と共に鑑賞したエピソードなどが綴られている。
東山魁夷の日展出品回数に関しては、2016年九州国立博物館で開催された『東山魁夷展 自然と人、そして町』の図録にある東山魁夷年譜を参考にした。出品回数63回中、陳列されたのは61回である。
髙山辰雄の日展出品回数に関しては、髙山由紀子著『父 髙山辰雄』の「日展出品は皆勤だった。落選して展示されないことはあったが、出品しなかったことはなかったはずである。」という文面から出品回数は70回前後と推察。
関連書籍
注
↑1 | 『画作の余白に』杉山寧著、美術年鑑社、1989年、86-87頁。 |
執筆者:戸田淳也(日本画家)
アイキャッチ画像:image by Marcin Chuć