事実と虚構[第4回]——プラトンと虚構について(3)


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事実と虚構[第3回]——プラトンと虚構について(2)

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■「これはキノコだ」という判断の由来

 なぜプラトンは、「想起」という一見して私たちの常識とはかけ離れた考えを打ち出してまで、この世界のさまざまなものの基準であるイデアの存在を主張したのだろうか。この問いについては、いくつかの理由が挙げられよう。もちろん、プラトンやソクラテスが自分たちの説の正しさに絶対の自信をもっていたということもできるだろう。また、同時代に存在していたソフィストたちへの反論のため、ということも、典型的な理由の一つである。その反論の背後に、「青年たちがソフィストたちによって堕落させられてしまう」といったソクラテスの危機感、さらにはソフィストたちが高額の謝礼で教育を行なっていることへの嫉妬のようなものもあったのかもしれない。歴史に埋もれてしまった大哲学者たちの心境を推し量るのは非常に興味深いが、しかしここでは、少し視点を変え、私たち自身にも関わる理由について考えてみたい。

 みなさんは、上の写真を見て、何を思うだろうか。特別な意識をもっていなければ、ふと「あ、これはキノコだな」と思うことだろう。なぜそのように思ってしまうのだろうか?みなさんが今直接見ているものは、実際には、パソコンのような電子機器のディスプレイにすぎない。ディスプレイのなかでは、基本的には次のようなことが行われている。「あるユニット(単位)の部分では特定の色の光が透過する」というように、赤、青、緑の三色の光が調整され、それがディスプレイ全体にわたって処理されている。写真の画像の話に戻れば、画像の中央部にある諸ユニットから、白ないし黄色の光が透過するようにディスプレイの内部で処理が行われ、結果としてみなさんが今見ている画像が出来上がっている。もちろん、電子機器やディスプレイの中にキノコそのものがあるわけではない(もしあったらそのディスプレイは修理しなければならない)。あるいは、ディスプレイに対して「キノコを映せ」という命令が下されているわけでもない。つまり、みなさんが「あ、これはキノコだな」と思った根拠は、少なくともディスプレイの側にあるのではない。

■志向性

 では「これはキノコだな」という判断の根拠はどこにあるのだろうか。それは、私たちの側にある。ディスプレイ上の色付けられた無数の点を見て、私たちはそこにキノコという対象があると考える。別の言い方をすれば、私たちは、「ディスプレイ上の無数の色の点」と「キノコ」を結び付けているのである。

 このうち、左側の「ディスプレイ上の無数の色の点」の存在は、造作もなく確認できる。実際にみなさんが自身のディスプレイをじっくりと眺めればよいだけだ。しかし、右側の「キノコ」は、どこから「生えて」きたのだろうか。この「キノコ」は、私たちの頭の中にある。それは概念として存在しているキノコであって、実際に自然に生えているキノコではない。物理的にこの世界に存在しているものと、物理的にこの世界に存在していないものを結びつけるこのような現象は、私たちのなかで絶え間なく行われていることである。

 私たちが認識において一種の結びつけをしているという事実は、哲学においては、「志向性」という概念によって説明される。この概念自体は、古代ギリシアの哲学から頻繁に用いられてきていたが、オーストリアの哲学者、心理学者であるフランツ・ブレンターノによって、次のように定式化されている。

各々の心理的現象は、中世のスコラ学者たちがある対象の志向的(またおそらくは心的)内存在(intentionale Inexistenz)と名付けたもの、そして、完全に明確な表現によってではないが、ある内容への関係、ある対象への方向づけ(この言葉において、ある実在が了解されてはならない)、あるいは内在的対象性と私たちであれば呼ぶであろうものをつうじて特徴づけられる。各々の心的現象は、すべて同じ仕方ではないにせよ、それ自身のうちに客観(Objekt)としての何かを含んでいる。表象においては何かが表象され、判断においては何かが肯定あるいは否定され、愛においては何かが愛され、憎しみにおいては何かが憎まれ、欲求においては何かが欲せられる、等々。(中略)そして私たちは、次のように言うことで、心理的現象を定義することができる。すなわち、心理的現象とは、自身のうちにある対象を志向的に含むような現象である、と[1]Brentano, Franz (1874). Psychologie vom empirishen Standpunkte, Erster Band, Leipzig: Verlag von Duncker & Humblot, pp.114-5. いくつかのページがぼやけているが、以下のリンクから閲覧が可能。https://archive.org/details/psychologievome00kraugoog/page/n134/mode/2up ブレンターノ自身は「志向性」という語を使っていないが、「志向的」と訳されるintentionalという形容詞を用いている。

 心理的現象はみな、それ自身のうちに、「それが何であるか」という要素を含んでいる。キノコの例を用いれば、私たちが見る黄色がかった白い点それ自体は、色と形をもった感覚でしかない。しかし、それに判断を加える段になると、それは同時に「キノコ」という客観を有し、それゆえに私たちはこの白いものを客観的に「キノコ」と把握することができる。また、キノコのことをまったく知らない子どもがいたとしても、白い点の集合を「何らかの白いもの」と特徴づけることができる。つまり、私たちは受け取った感覚をそれだけで完結させず、「何かあるもの」=概念へ志向するということ、それがまさに上述の引用でブレンターノが述べていることである。

■認識を駆動する言葉

 志向性は、私たちが受け取った感覚を「何らかのもの」についてのものであるということを示す。しかし、それはその感覚を具体的に「キノコ」と言われるものと結びつけるものではない。志向性は、せいぜいのところ、感覚器官をつうじて与えられるさまざまな感覚データに、ある概念が与えられることを保証するにすぎない。具体的に「キノコ」という言葉をあてる契機が追加されることによってはじめて、私たちの「あ、これはキノコだな」という認識が完成する。その契機は決して哲学的なものではないし、学術的なものでもない。私たちに非常によく馴染みのある、「言葉を教える/言葉を知る」というものである。

 私たちは物心つく前から、家族、周りにいるさまざまな人に囲まれている。そうした人たちはしばしば、私たちにものと音を示す。はじめは、私たちは両者の関係を理解できない。相手が口を動かして音を発するさまを不思議そうに眺めるばかりである。しかし、目の前に存在するものと音が結びつき、その音がそのものの名前であると気づいたときから、私たちの認識は本格的に始動する。また、その言葉を自分の口で模倣することで周りの人が喜ぶ姿は、その認識への欲求を増幅させる。かくして、子どもは「ものには名前があるということ」と、「他の人と名前を共有する喜び」に魅了され、「これはなに?」「あれはなに?」と昼夜問わずに問いかけ、それは周囲の人たちがうんざりした表情を見せるようになっても止まらない。もちろん、このときの子どもの認識は、「これは○○という名前をもつ」という原始的な認識にすぎない。けれども、この段階において、子どもは非常に重要な成功体験/失敗体験をすることになる。成功体験とは、次のようなものだ。

ある人が自分の子どもにさまざまなものの名前を教えようとしている。その人は、自分が飼っている犬を指差し、「ワンワン」と言う。子どもは不思議そうに親の顔を眺めている。何度も飼い犬を差して「ワンワン」という言葉を投げかけるだけでなく、絵本の犬、テレビに映る犬、外を通りかかった犬に対し、「ワンワン」という言葉を投げかける。あるとき、ようやく子どもはその対象が「ワンワン」という名前であることを理解し、偶然テレビに映った、見たことのない犬を指差し、「ワンワン」と叫ぶ。親の顔はみるみるうちに笑顔に溢れる。

 また、失敗体験とは、次のようなものになろう。

上述の人は、子どもにさらに言葉を教えようとしている。二人で散歩をしているとき、通りかかった車を指差し、「ブーブー」と言う。子どもはすでにこの世が言葉で満ちていることを経験しており、おそらくこの「ブーブー」も何らかの対象を指すのだと知っている。そこへ左隣から、大きな四両の電車が通りかかった。子どもはカッと目を見開き、親の顔を見て、「ブーブー!」と叫ぶ。親は思わず苦笑してしまう。

 言葉の体験が成功か失敗か否かは、言葉の適用が正しく行われたか否かに依拠している。しかしいずれにせよ、ここで子どもは、非常に大きなことを行っている。両事例においても、子どもは、最初に投げかけられた言葉にあてはまる対象の特徴を自ら考え、その特徴をもつ他の対象に当の言葉を投げかけている。具体的には、「四本の脚で歩く動物」や「車輪で走るもの」といった特徴を概念化し、それを初めて見た対象に見出すことで、言葉をあてはめている。つまり、すでに子どもにおいて、ものごとを「何かあるもの」として認識しようというきわめて強力な傾向が現れているのである。

■虚構とのつながり

 プラトンやソクラテスがイデアにこだわり、想起説を導き出した根本的な理由の一つは、まさに、「志向性」と「言葉の社会性」にあるのではないか――私はそう考えている。ごく幼いころから、私たちは自然と目に映るものを「何かあるもの=客観」として捉え、それをもとに言葉をあてる性質を有している。その成功体験、あるいは失敗体験をつうじて、私たちは、ある言葉にあてはまる対象一般の本質を理解していること――プラトンの言葉で言えば、「その対象のイデアを有していること」――そしてさらに、周囲の人と同じ言葉を使う以上、その理解は共通のものだという前提に至る。それは、次のプラトン(ソクラテス)の言葉にも見られる。

われわれは、われわれが同じ名前を適用するような多くのものを一まとめにして、その一組ごとにそれぞれ一つの〈実相〉(エイドス)というものを立てることにしている(『国家』596A[2]プラトン(藤沢令夫訳)『国家 下』、岩波文庫、2017年。)。

 あるものの名前を知るということと、そのエイドス(イデア)を知ることとは、互いに結びついている。私たちは、(引用の後の箇所に出てくる)机という言葉を、さまざまな色、形の対象に適用することができるが、それは、「紙や本などを置き、勉強したり読書するためのもの」という本質が共有されているためである。

 一方、ソクラテスは戦略的に「自分は何も知らない」ということを最初の一歩に選んだ。この言葉を額面通りにとれば、ソクラテスはここから、「私たちは結局どんなことがらも知ることはできない」という不可知論に至ってもおかしくはなかっただろう。しかし現実的には、私たちには、「共通の言葉を介した一般的理解」という事実が存在する。これにきちんと向き合うためには――他方でソクラテス自身の産婆的手法自体を正当化するためには――ソクラテスは無知という安全地帯からもう一歩踏み出して、ものの本質の知を語る必要があったはずである。そして、自らの無知の状態を保ちながら、ものの本質の知を語るためには、ソクラテスは「ソクラテス以外のもの」、それも周りの人の知識や経験といったもの以外のものを必要としていた――それが天上界にある「イデア」として結実したのは、一定の合理性があるように思われる。ソクラテス自身が知っていると言ってしまえば、それによってソクラテスの無知は剥ぎ取られる。そして、周囲の人の知や経験に根拠を置けば、イデアを持ち出す余地がなくなってしまうからである。

 最後に、このコラムのテーマである「虚構」[3]「虚構」という言葉にはいくつかの意味が想定されるだろう。ここで私は、その意味を、対応する英語であるfictionの語源を踏まえ、「(人間によって)作り上げられたもの」と解している。について触れておきたい。「あ、これはキノコだな」ということが、志向性および言葉の社会性が関係していることをみてきた。しかし、裏を返せば、「あ、これはキノコだな」という判断の原因は、おもに私たちの側にある。志向性は私たちの認識の特徴を指すものだし、また「言葉を教える/言葉を知る」ということは、教える人間のもつ言語観、知識や、相互の言語的交流、喜びの共有――これら自体はみなキノコ自体ではなく、もっぱら人間の側の問題である――に支えられている。換言すれば、「あ、これはキノコだな」という認識は、人間が作り上げたもの、つまり虚構に多く依存している。人間が「キノコ」という客観を作り上げることがなければ、最初の写真の像もまた、「キノコだな」と認識されることはなかっただろう。同じように、ソクラテスやプラトンたちがキノコの認識をテーマに問答を繰り広げたとすれば間違いなく登場したであろう「キノコのイデア」は、ソクラテス―プラトンが自身の説を打ち立てる上で彼らが作り上げたものだと言える。それゆえ、「キノコのイデア」もまた、彼らの虚構にすぎないのである。

 では、虚構であるなら、「あ、これはキノコだな」という判断、あるいは「キノコのイデア」は放棄するべきなのだろうか?実際、写真に写っているものはディスプレイの光の集合にすぎないのだから、それ自体決してキノコである根拠をもたない。しかし、放棄するべきだという判断はあまりに不合理だろう。そうしてしまえば、私たちはキノコのみならず、すべての言葉、認識を失ってしまうだろう。また、言葉の場合、「虚構である」ということが客観性を棄却するものではない。むしろ言葉の意味の客観性は、同じ言葉を使う人たちが協働することで初めて可能となるからである。一般に、私たちは「虚構」という言葉をネガティブに捉えてしまう――事実の把握を「虚偽」によって妨害するようなものと捉えてしまう。しかし実際には、事実を事実として認識する、そしてそれを知識として共通するためには、私たちの虚構が必須となるのである。


「事実と虚構」連載一覧
第1回 第2回 第3回


関連書籍

プラトン[著]、藤沢令夫[訳]、岩波書店、2017年

1Brentano, Franz (1874). Psychologie vom empirishen Standpunkte, Erster Band, Leipzig: Verlag von Duncker & Humblot, pp.114-5. いくつかのページがぼやけているが、以下のリンクから閲覧が可能。https://archive.org/details/psychologievome00kraugoog/page/n134/mode/2up ブレンターノ自身は「志向性」という語を使っていないが、「志向的」と訳されるintentionalという形容詞を用いている。
2プラトン(藤沢令夫訳)『国家 下』、岩波文庫、2017年。
3「虚構」という言葉にはいくつかの意味が想定されるだろう。ここで私は、その意味を、対応する英語であるfictionの語源を踏まえ、「(人間によって)作り上げられたもの」と解している。


執筆者:豊川祥隆(大学非常勤講師)

アイキャッチ画像:オオシロカラカサタケと思われるキノコ。著者撮影。


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