シラス丼

嘉門達夫、ライプニッツ、ソクラテス——人間の物質機械化に抗する(原因論①)

1. はじめに[1]本稿は非売品の小冊子『Vigilareヴィギラーレ』創刊号(有限会社Vigilare、2012年)に寄稿した短い論稿を下敷きにして大幅に加筆修正したものである。——「血液型別ハンバーガーショップ」

 私が小学校5年生の時に、嘉門達夫の「替え歌メドレー」というコメディーソングが大ヒットした。同級生がシングル盤CDを持っていて、彼の家へ遊びに行ったときによく聴いたものである。「替え歌メドレー」には「替え歌メドレー2」という続編もあり、友人はこちらのシングル盤ももれなく所有していたので、やはり私は彼の家でよく聴いてよく笑ったものだった。

 この「替え歌メドレー2」のカップリング曲は「血液型ハンバーガーショップ」という歌で、私たちはむしろこのカップリング曲を最も好んで聴いていた。これは「♪ハンバーガーショップ A型、O型、AB型、B型、〔…〕それぞれのタイプの店員がいたらこんなふうになる♪」という仕方でハンバーガーショップの店員を歌った曲である。「やたら細かいA型」の店員ならこんな接客になり、「人を支配したがるO型」の店員ならこんなふうに、「二重人格でクールなAB型」ならこんなふうに、、、ときて、最後の「ちゃらんぽらんなB型」のところで私たちはこらえきれずに抱腹絶倒するのがいつものパターンだった。

 小学校の教室の中がすでにボケとツッコミによって濃厚に彩られているような大阪で育った私は、「なんちゅうおもろいひとや(なんと面白い人なんだ)」と嘉門達夫に憧れたものである。彼はテレビをほとんど見ない家庭に育った私が出会った最初のコメディアンであった。

2. 人間の物質機械化

 さて、「やたら細かい」という性格とA型の血液型との間に結びつきを見出すような血液型別性格判断は、日常的に行われている或る種の「遊び」である。たとえば、私は誰かと料理を作っていると、「血液型はA型でしょう」と言われることがある。いっしょに作業をしている人からすると、私はどうやら「やたら細かいA型」に分類されるような几帳面な料理の仕方をしているらしい。

 しかし私は実際にはA型ではないので、推論した人は答えを知って驚くとともに、とても残念そうな顔をする。仮に正解であれば、その人は自分の推論の正しさにきっとご満悦なのだろう。

 血液型を言い当てることを楽しむこういった血液型別性格判断は、ひとつの「推論遊び」として老若男女問わず広く行われており、この論考を読む読者の方も、私と同じように誰かに血液型を言い当てようとされた経験があるのではないだろうか。

 しかしながら、この「遊び」は大変危険であると私は考えている。それは、この「遊び」が暗黙の裡に人間を単なる物質機械に貶めてしまう傾向を持つと考えられるからである。恐らく人間を単なる物質機械として考えている人はいないだろう。或いは、いるにしてもごく少数であると思う。多くの人はたとえば、「人間らしく生きたい」と考えているのではないだろうか。確かに「人間らしさ」ということで何を意味しているのかという点では、人それぞれに自分の考える「人間らしさ」があるだろうが、まさか「物質」に「人間らしさ」の本質を置く人はいないだろう。

 血液型別性格判断を好む人も同じである。「人間らしく生きたい」と考えているはずである。しかし、そうであるにもかかわらず、血液型別性格判断を行う時、その人は人間を物質機械と見なす世界観に足を踏み入れてしまっている。自分では「人間らしく」と言いながら、他人を物質機械化しているのであるから、これは矛盾であるか、そうでないなら、自分の行為の意味を理解していない幼稚なコドモである。

3. 「やたらほそい」千切り土生姜

 ではなぜ血液型別性格判断は人間を物質機械化するのだろうか。前節で私の経験について触れたが、その経験に引き付けて考察してみよう。

 私はその時料理をしていた。私は料理が好きなのであるが、美味しい料理を作るために、調理の際に気を付けるべき色々なポイントをしっかり押さえるようにしている。その時何を作っていたのか忘れてしまったので、いまは仮にシラス丼ということにしよう。私はシラス丼が大好物で、シラスの上に土生姜を載せて食べるのが特に好きなのであるが、この土生姜はすりおろしたものではなく、千切りであることが重要だと私は考えている。そして、千切りはほそければほそい方がよい。だから、私は手間を惜しまずに、土生姜を糸のような「やたらほそい」千切りにする。

 そういう料理の仕方は一般的に「やたら細かい」印象を与えるのであろう。かくして、いっしょに作業をしていた人は私をA型であると推論することになる。もっとも、「几帳面だからA型である」という判断それ自体にはそれほど大きな問題はないといってよい。A型の人が絶対に例外なく几帳面であるとは必ずしも限らないから、「几帳面だからA型である」と即断するのは短絡的であると批判することは可能であろう。しかし、本当の問題は別のところにある。

4. 問題の所在

 「几帳面だからA型だ」という推論が問題的なのは、その推論の内容に「根無がいま土生姜をほそい千切りにしているのは、根無がA型だからだ」という判断が暗黙の裡に含まれているからである。推論する人の関心は「几帳面」と「A型」の関係ではなく、「いま土生姜をほそい千切りにしていること」と「A型」の関係にいつのまにか移行してしまっている。知らず知らずのうちに「いま千切りをしている理由」が「A型であること」に求められてしまっている。ここが問題なのである。

 私は「おいしいシラス丼が食べたいから」土生姜をほそい千切りにしているのであって、それ以外に私がいま土生姜をほそい千切りにする個別的な理由はない。つい先日私はテレビでこだまひびきの漫才を見て大笑いしたが、それは私が漫才好きの大阪人であるから・・・・・・・・ではなく、こだまひびきのボケとツッコミがおもしろかったからである。「いや、そもそも根無が大阪人だからこそ大笑いしたのであって、根無が東京人なら大笑いしていないだろう、だから根無が大阪人であることが大笑いした真の理由だ」いう反論があるかもしれないが、東京人でもこだまひびきに大笑いする人もいるはずだからこの反論は無意味である。「おもしろい」とその時感じたこと以外に私が大笑いした理由はない。

 同様に、仮にA型の血液が流れていることが一般的傾向として「やたら細かい」性格を当人に与えるとしても[2]血液型と性格との間に存在するとされる関係性が科学的に証明されるかどうかという問題は本稿にとってはどうでもよい。科学的に証明されようがされまいが、両者を結び付ける態度が現に存在すること自体が問題なのである。、私がその時・・・土生姜をほそい千切りにしていたのはあくまで「おいしいシラス丼が食べたい」と思ったからであって、それ以外に理由はない。だから、「A型だからほそい千切りにしている」という判断は、血液型別性格判断の領域を越え出たところで行われていると言わねばならない。血液型別性格判断を行う時、その人は血液型別性格判断の内部に留まることができず、別の領域へ侵入してしまうのである。

 この領域が要するに人間を物質機械化する領域である。或る人に流れる血液がA型であるという条件と、その人が美味しいシラス丼を食べたいという条件がそろえば、その人は必然的に「土生姜をほそい千切りにする」という結果が生み出される。一定の条件が整えば一定の結果が必ず生じる・・・・・。こういう世界観の中では人間は完全に機械になってしまうだろう[3]この「機械化」の問題は人間における自由の問題でもある。この点に関する詳細な議論を知りたい読者は拙著『ライプニッツの創世記』の第4章を参照されたし。

 しかし、たとえおいしい・・・・シラス丼が食べたくても、そして土生姜が冷蔵庫に入っていたとしても、土生姜を使わずに普通の・・・シラス丼で妥協することも当然ながらできるはずである。だから、土生姜をほそい千切りにするという行動には、「土生姜をほそい千切りにしよう」というその時の個別的な意志・・・・・・・・・・、つまり精神の働き・・・・・がどうしても必要なのである。土生姜をほそい千切りにしている理由として血液型を持ち出すことは、人間を機械化することに他ならないといえる。

5. ライプニッツとソクラテス

 ドイツの哲学者ライプニッツ(1646-1716)は、精神の働きを用いて説明すべき箇所ですべてを物質的な観点から説明することの愚かさを次のように述べている。

これでは、歴史家が、偉大な君主が枢要な要塞を攻略して制圧を果たしたのを説明しようとして、征服者が思慮深さでもっていかにふさわしいときと手段を選んだか、また彼の力量がいかに万難を排したのか、を著すかわりに、こんなふうに語ろうとするようなものである。勝利したのは、大砲の火薬の微小な物体が火花へと接触させられて、この物体が、要塞の壁面へと硬く重い物体を押し出しうる速度で運ばれたからであり、その間、大砲の銅の筒を構成する微小物体からなる分枝がしっかりと絡み合いこの速度によって分解しなかったからなのだ、と(『形而上学叙説』第19節)[4]G. W. ライプニッツ『形而上学叙説 ライプニッツ―アルノー往復書簡』橋本由美子監訳、平凡社ライブラリー、2013年、p. 53。

 歴史家が説明すべきは偉大な君主の優れた判断の理由であって、大砲が無事に機能したことの物質的条件の説明ではない。このような時に物質的条件の説明に終始する態度に何の意味があるだろうかとライプニッツは批判しているのである。

 実は、そこに意味があると考える立場もある。唯物論である。ライプニッツは上の引用に続く第20節でプラトンの『パイドン』に触れ、「ソクラテスはこの点についての自分の見解に驚くほど一致していて、唯物論の傾向が非常に強い現代の哲学者に対してわざわざ述べてくれたと思われるほどである」というようなことを書いている[5]同書、p. 54参照。。ライプニッツとソクラテスに共通する敵は唯物論である。

 『パイドン』も引いておこう。さきほどライプニッツに批判された立場がソクラテスによっても批判されていることがわかる。

それは、ちょうど誰かが次のようなことを言うとしたならば、それとまったく同じことだ、と僕には思われた。すなわち、ソクラテスは自分の為すすべてのことを理性によって為す、と言っておきながら、僕の為す一つ一つの事柄の原因を語る段になると、こんな風に言うのだ。まず、いまここに僕が座っている(※ソクラテスは有罪判決を受けて牢獄内にいる:筆者注)ことの原因について言えばこんなことになる。僕の身体は骨と腱から形づくられており、骨は硬くて相互に分離していながら関節でつながっている。腱は伸び縮みできて、肉や皮膚とともに骨を包み、皮膚がこれらすべてのものを一つのものにまとめている。そこで、骨は関節の中で自由に揺れ動くのだから、腱が伸びたり縮んだりすることによって、僕はいま脚を折り曲げることができるのであり、この原因によって僕はここで足を折り曲げて座っているのである、と。さらにまた、君たちといま会話していることについても、かれは他の同じような原因を語ることになるだろう。音声とか、空気とか、聴覚とか、その他無数のそのようなことを原因として持ち出して、本当の原因を語ることをなおざりにするのである。だが、本当の原因とは次のことである。アテナイ人が僕に有罪の判決をくだすことをより善いと思ったこと、それ故に僕もまたここに坐っているのをより善いと思ったこと、そして、かれらがどんな刑罰を命ずるにせよ留まってそれを受けるのがより正しいと思ったこと、このことなのである。(『パイドン』98C-E)[6]プラトン『パイドン——魂の不死について』岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年、p. 127。

 唯物論者は、なぜソクラテスはいま牢獄の中に坐っているのかという「問い」に対して、骨や腱の運動にその「答え」を求める。しかし、ソクラテスもライプニッツもそのような説明は滑稽だと考えている。有罪判決を受ける方がそうでないよりも「よい」「正しい」と判断したことこそ、なぜいま牢獄の中に坐っているのかという「問い」に対する「答え」としてふさわしい。これがライプニッツとソクラテスの立場である。

6. 「人間らしく」生きたい唯物論者

 このように見てみると、血液型別性格判断を好む人は唯物論者なのである。その人は他人の血液型を推論し、自分は他人の行動の理由を見事に言い当てたと自慢するだろう。A型の血液でほそい千切り土生姜を説明することは、骨と腱で牢獄のソクラテスを説明するのと同じであり、火薬と銅で要塞の攻略を説明するのと同じである。その人は実質的にこう言っているのである。

いま根無が土生姜をほそい千切りにしているのは、根無の血液を構成する赤血球に連なる糖鎖が或る一定の構造を持っており、その結果根無の血液はA型になるわけだが、その血液が心臓の左心室から大動脈へ送り出され、やがて大静脈を通って右心房へ戻ってくる間に、その糖鎖構造が別のタイプへと変化してしまうことがないからである。

 こんな説明に納得できるのは、人間から精神を取り除いて、人間を電池で動く時計のごとき機械としてみなす人だけだろう。電池時計が狂いなく時を刻み、或る時に12時23分、或る時に12時24分を示すのは、電池から一定の強さの電流がその強さの電流として流れ出ているからだ、というわけである。「人間らしく生きたい」と言いながら、やっていることは人間の物質機械化なのである。

 もっとも、血液型別性格判断を好む人が仮に人間を物質機械として考える立場を自覚的にとっているなら、それはそれで一貫性があるだろう。私は本稿第二節の中で「恐らく人間を単なる物質機械として考えている人はいないだろう。或いは、いるにしてもごく少数であると思う」と書いたが、それはこういう一貫的な立場を表明する人も中にはいると思われるからである。私は唯物論には共感しないが、「人間らしく」と言いながら血液型の話を好む人よりも、主張に一貫性がある点でよほどましだと思う。

7. おわりに―真のコメディアン嘉門達夫

 本稿の冒頭で嘉門達夫の「血液型別ハンバーガーショップ」の歌詞を少し引いたが、多少省略したので、改めて正確に引用しておく。

血液型別
ハンバーガーショップ
A型 O型 AB型 B型
人間の性格が
たった4種類に
分類されるわけないけど
それぞれのタイプの
店員がいたら
こんなふうになる

 嘉門達夫は「人間の性格がたった4種類に分類されるわけないけど」という留保をつけている。このささやかな留保は、人間を機械とはみなさない態度を表しているだろう。「お笑い」という営みは、人間の精神の営みに他ならない。だから、「お笑い」が、人間の精神を機械化して物質的反応に還元してしまう唯物論と相容れるはずがない。この点で、嘉門達夫はやはり真のコメディアンなのである。


関連書籍

G. W. ライプニッツ[著]、橋本由美子[監訳]、秋保亘/大矢宗太朗[訳]、平凡社ライブラリー、2013年
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プラトン[著]、岩田靖夫[訳]、1998年
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根無一信[著]、慶應義塾大学出版会、2017年
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1本稿は非売品の小冊子『Vigilareヴィギラーレ』創刊号(有限会社Vigilare、2012年)に寄稿した短い論稿を下敷きにして大幅に加筆修正したものである。
2血液型と性格との間に存在するとされる関係性が科学的に証明されるかどうかという問題は本稿にとってはどうでもよい。科学的に証明されようがされまいが、両者を結び付ける態度が現に存在すること自体が問題なのである。
3この「機械化」の問題は人間における自由の問題でもある。この点に関する詳細な議論を知りたい読者は拙著『ライプニッツの創世記』の第4章を参照されたし。
4G. W. ライプニッツ『形而上学叙説 ライプニッツ―アルノー往復書簡』橋本由美子監訳、平凡社ライブラリー、2013年、p. 53。
5同書、p. 54参照。
6プラトン『パイドン——魂の不死について』岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年、p. 127。


執筆者:根無一信
1979年大阪生まれ大阪育ち。高校卒業後、無人島生活や八重山諸島放浪、インド放浪などを経て、徒歩と野宿で日本縦断。その後、独学して京都大学へ進み、哲学研究者を志す(2004年)。2016年に哲学研究で博士号取得。特技は素潜り・サッカー・循環呼吸、趣味はキントレ・三線演奏・ハードロック。現在、名古屋外国語大学現代国際学部国際教養学科准教授。

アイキャッチ画像:著者が作ったシラス丼


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