コスース《ひとつのそして3つの椅子》—アイキャッチ

ジョセフ・コスース《ひとつのそして3つの椅子》

 3つの物が横に並んで置かれている。真ん中にあるのは木製の椅子のようだ。座ろうと思えば座ることもできる。その左側には、その椅子を撮ったとおぼしき写真が貼られている。一番右側にはなにか文字列が印刷された紙がある。「chair」と書かれており、どうやら辞書に書かれているchair(=椅子)の項目である。

 これは、いわゆる「コンセプチュアル・アート」の代表作としてあげられるジョセフ・コスースの《ひとつのそして3つの椅子》(1965年)である(作品画像:NY近代美術館)。コンセプチュアル・アートとは、素材やかたち、見た目の美しさ、制作技術ではなく、作品が表す意味や概念(コンセプト)をもっとも重要視するような芸術のあり方である。狭義のコンセプチュアル・アートはおおよそ1960年代に登場してきたが、いまではコンセプトのない芸術作品は存在しないと言えるほどに芸術そのものの内部に深く浸透している。コスースの《ひとつのそして3つの椅子》はこのコンセプチュアル・アートの説明の際に必ずと言っていいほど言及される作品である。

 個人的な経験を述べるなら、現代アートに関する多くの本に言及がある一方で、その意味は長いあいだよく分からなかった。例えば、「観客は、実物の椅子とその写真、椅子を定義する言語的な記述という三つの構成要素間の「目に見えない関係」を無意識のうちに読みとらされ、人間が椅子という事物を知覚し、認識するシステムとプロセスを意識化させられる」[1]末永照和監修『カラー版 20世紀の美術』美術出版社、2000年、155-156頁。といった説明を読んでも、はっきり言ってさっぱり意味が分からない。少なくとも私はそのようなシステムとプロセスを意識化することはなかったし、仮にそのようなプロセスが意識化されたとしてだから何なのかという思いをぬぐいさることもできなかった。この作品についての説明を見るたび、こういった疑問をずっと抱いていた。しかし近年、ようやく自分なりにこの作品を理解することができるようになってきたような気がする。ここではそれについて書いてみたい。


 まずタイトルについて。近年、日本語の文献等を読んでいると《ひとつと3つの椅子》と訳されていることが多いように感じる。しかしこれは誤訳ではないか。英語の原タイトルはOne and Three chairsであり、それをただ機械的に日本語へと移しかえただけなのかもしれないが、そもそも日本語として意味不明である。

 原タイトルのOne and Three chairsは、より正確には「one chair and three chairs」であって、こういう場合英語では2回繰り返される単語は省略される。つまり若干冗長ではあるが「ひとつの椅子と3つの椅子」というのが本来の意味である。とはいえ日本語でも2回「椅子」という単語が出てくると冗長なので、《ひとつのそして3つの椅子》としておいた。

 このようにタイトルの意味が分かれば、その内容も理解されるだろう。つまりこの作品は3つの椅子、つまり物体として存在し現実に座ることもできる椅子、その実在する椅子の写真、椅子の定義という3つは、どれも異なるあり方をしているがそれでもどれも椅子なのだ、ということを表しているのである。

 ここから先の捉え方は見る人によって変わってくるだろう。現れ方が異なっていようともどれもやはり椅子なのだ、という方向性を強調するならば、3つの椅子を統合する原理のようなものへと向かい、一元論へと傾いていくだろうし、同じひとつの椅子であってもその現れ方は無数にありうるのだという方向へ進めば反対に多元論的なニュアンスを帯びてくる。したがってこの作品から、〈一か多か〉という古代ギリシャ以来の哲学的な問題を読みとることができるのである。

 この問題をもう少し敷衍してみたい。つまりまさに古代ギリシャを代表する哲学者プラトンの思想をここに見いだすことも可能なように思えるのである。

 プラトンには有名な(悪名高い?)「詩人追放論」というものがある。「詩人」と言われているが、ギリシャ語において詩人を表す「ポイエーテースποιητής」という言葉は、元々何かを作る人全般を表すものであり、プラトンによって直接的に批判されているのは画家と悲劇作家である。

 プラトン曰く、この世界にはまず神が作りだした真実そのものたるイデアがある。次にそのイデアを模倣して人間によって作られた実在の事物がある。そして3番目にくるのが、実在する事物をさらに模倣することによって作られる画家や作家の作品である。具体例としてあげられているのは寝椅子であるが、以上の3つに対して、寝椅子のイデア、職人が作る実在の寝椅子、画家が描く寝椅子の絵がそれぞれ対応している。したがってプラトンに言わせれば、画家はイデアという真実から遠ざかること3番目ものを描いているということになる。かくして画家は人々を真実から遠ざけ、その魂を低劣なものにしてしまうのであり、それゆえに画家は理想的な国家からは追放しなければならない、という議論である[2]実際にはもう少し細かい議論があるがここでは省略する。興味がある人は、プラトンの『国家』第10巻を参照してほしい。

 ここでコスースの作品に戻ってみる。そこにあるのは実在の椅子、椅子の写真、そして椅子の定義である。実在の椅子と椅子の写真がそれぞれ、プラトンの考える第2、第3の存在に対応していると考えることはたやすい。イデアを事物の定義と考えることができるのかどうかというのは微妙な問題であるが[3]イデアと定義を別物とみなす立場としては、例えば、藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書、1998年、78頁以下を参照。、(プラトンの弟子であったアリストテレスが考えていたように)定義というものが事物の「本質」やそれが「何であるか」を規定するものだとすれば、定義をイデアに類する物とみなすことも可能であろう。そうすればコスースによる3つの椅子は、それぞれがプラトンの考えていた3つの実在に対応すると考えることも可能だろう。

 プラトンといえば、真の実在である「イデア」の存在を主張し、生々流転するこの世界の背後に真の世界があると説いた一元論の元祖のような存在とされるのが通俗的な解釈であるが、いずれにしても多元論が一元論に収束するのはこうした「本質的」な何かにむかってであるし、コスースによる3つの椅子がすべて「椅子である」と認識することができるのは、鑑賞者の側がそもそも「椅子とは何か」を漠然としたかたちであれ知っているからだとも言える。

 その一方で、コスースの作品はなぜ三つ組だったのだろうか。4つでも5つでもよさそうにも思える。もちろん実物・写真・定義からなるこの組み合わせは非常によくできており、追加すべき別の椅子もないようにも思えるが、この「3」という数字を考えるとき、個人的にはマルセル・デュシャンによる次の言葉が思い浮かぶ。彼はフランスの美術批評家ピエール・カバンヌとの対話でこんなことを言っている。

「一、それは単位です。二は二倍、二元性。そして三は、残り全部です。三という言葉に近づいていけば、三百万だって手にすることができます。それは三と同じものです。[4]マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』岩佐鉄男/小林靖夫訳、ちくま学芸文庫、1999年

 つまりデュシャンにとって、「3」という数は多元論の原理そのものを表すものだった。一と二がそれぞれ一元論と二元論を表しているのだとすれば、三が表すのはそれ以上のすべてである。デュシャンはこの考え方に則って《3つの停止原基》や《9つの雄の鋳型》といった作品を制作してもいた。

 ここでコスースの《ひとつのそして3つの椅子》に戻ろう。デュシャン流の考え方を通してみれば、ここで椅子が3つであるということは、椅子が300万あることと変わらない。つまりここにある3つの椅子は、潜在的には無数の椅子のありようを表していると考えることができるのである。

 このように考えてみれば、この作品が一元論と多元論の関係を表しているとみなすことも決して不当ではないだろう。先にも述べたとおり、3つの椅子はどれもやはり椅子なのだという点を強調すれば一元論に近づき、同じひとつの椅子であってもその表れは無数に異なっているのだという方を重視すれば多元論へと傾いていく。もちろんこうした見方がこの作品の正当な解釈だと主張するつもりはない。またこれがコスース自身の意図だったと言うつもりもない。一元論と多元論のどちらがよいのかという価値判断も作品自体に内在しているわけではない。それを読みとるのはやはり鑑賞者の側である。

 以上の解釈もまた、一人の鑑賞者の恣意的な読みでしかないのかもしれないが、こんな風に考えることができるようになったとき、少なくとも私にとってコスースのこの作品は、それまでとは違う、どこか身近でまた好ましいもののように思えてきたのである。


関連書籍

プラトン著、藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年
\本日楽天ポイント5倍!/
楽天市場
\本日Tポイント5%還元!/
Yahoo! ショッピング
藤沢令夫[著]、岩波新書、1998年
\本日楽天ポイント5倍!/
楽天市場
\本日Tポイント5%還元!/
Yahoo! ショッピング
マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ著、岩佐鉄男・小林康夫訳、ちくま学芸文庫、1999年
\本日楽天ポイント5倍!/
楽天市場
\本日Tポイント5%還元!/
Yahoo! ショッピング
小崎哲哉著、河出書房新社、2018年
\本日楽天ポイント5倍!/
楽天市場
\本日Tポイント5%還元!/
Yahoo! ショッピング

1末永照和監修『カラー版 20世紀の美術』美術出版社、2000年、155-156頁。
2実際にはもう少し細かい議論があるがここでは省略する。興味がある人は、プラトンの『国家』第10巻を参照してほしい。
3イデアと定義を別物とみなす立場としては、例えば、藤沢令夫『プラトンの哲学』岩波新書、1998年、78頁以下を参照。
4マルセル・デュシャン/ピエール・カバンヌ『デュシャンは語る』岩佐鉄男/小林靖夫訳、ちくま学芸文庫、1999年


執筆者:渡辺洋平

作品リンク(NY近代美術館):https://www.moma.org/collection/works/81435

アイキャッチ画像:image by TeeFarm
画像出典:https://pixabay.com/images/id-2189476/


0 コメント
Inline Feedbacks
すべてのコメントを見る
0
よろしければ是非ともコメントをお寄せ下さいx