とうとう、船尾と船首の船員が、同時に叫ぶのが聞こえた。「乗客でない方は、おりてください!」
この言葉を聞いて、「ガリレオ」の頭から尻尾までがびくりと震えた。数分のうちに、見送りに来た人びとはみな下船した。橋が外され、ホーサー〔船と岸をつなぐロープ〕が解かれ、タラップが上げられる。汽笛が響き、船が動きはじめる。すると、女たちは泣き崩れ、にやにやと笑っていた若者たちは真顔になった。それまでぴくりとも表情を変えなかったひげ面の男が、片手で目頭を押さえているのが見えた。この動揺と奇妙な対照をなしているのが、波止場に集まった家族や友人とあいさつを交わしている、船員や士官の落ち着きぶりだった。彼らを見ていると、この船の目的地はラ・スペツィア〔北伊リグーリア州の港湾都市。船が出発しようとしているジェノヴァからは、目と鼻の先の距離にある〕なのかという気がしてくる。「またね!」、「おみやげよろしく」、「頼まれたとおりにするって、ジージャに伝えておいてね」、「モンテヴィデオで投函しろよ」、「あのワインのこと、頼むぞ」、「良い旅を」、「行ってらっしゃい!」なかには、いまになって波止場に駆けつけてくる者もいた。甲板の上の知り合いに向けて、葉巻の束やオレンジの入った袋を投げつける。はじめのうちは甲板まで届いていたが、そのうち海に落ちる方が多くなった。町ではすでに、街灯がきらめきを放っている。港を包む薄闇のなかを、汽船は静かに、ひっそりと進んでいく。まるで、どこかから盗んできた人肉を、人知れず持ち去ろうとするかのように。船首には、いちばん密な人だかりができていた。みんな陸地の方を向いて、半円形のジェノヴァの町並みに、次々に明かりがともる光景を見つめている。口を聞く者はほとんどおらず、たまに聞こえるのもささやき声ばかりだった。暗がりのなか、私はあたりを見まわした。頭を抱えて坐りこむ母親の胸に、子供たちがへばりついている。船楼のそばで、人を寄せつけないしわがれた声が、皮肉のこもった調子で叫ぶのが聞こえた。「イタリア、万歳!」視線をあげると、祖国に向かって拳を振りあげている、のっぽの老人の姿があった。港の外に出るころには、すでに夜が落ちていた。
その痛ましい光景を目にしたあと、私は船尾に戻り、自分が泊まる一等の客室を探しにおりていった。ここで告白しておかなければならないが、この海中の宿舎にはじめておりていったとき、私は牢屋の独房に足を踏み入れたような、じつに情けない心境になった。縦にも横にも窮屈な廊下には、木材が発する潮の臭い、灯油の臭い、ロシア革の臭い、貴婦人の香水の匂いがいっぱいに充満していた。そこを、人びとがせわしなく行き来して、ボーイやメイドを相手に、エゴイズムを丸出しにしてあれこれまくし立てている。まさしく、荷ほどきしたばかりの旅行者に特有の荒々しさだ。かかる混乱に揉まれながら、不揃いに照らされた廊下のなかで、美しいブロンドの婦人の笑顔や、長い黒ひげをたくわえた3、4人の男たちや、すさまじく背の高い司祭や、いらだつメイドの厚かましく幅広の顔がちらりと見えた。あたりからはジェノヴァ方言のほかに、フランス語、イタリア語、スペイン語などが聞こえてくる。廊下の角を曲がったところで、危うく黒人女にぶつかりそうになった。ある客室で、誰かがテノールのソルフェージュを歌っているのが聞こえる。その正面が、私にあてがわれた部屋だった。6立方メートルかそこいらの、囚人に似合いの一室だ。片側にはプロクルステスの寝台〔鉄製のベッドのこと。ギリシア神話に登場する強盗プロクルステスの故事に由来する〕が、もう一方にはソファが置かれている。部屋の突き当たりには、床屋でよく見かけるような鏡が吊され、その下には、壁にはめこまれた洗面台がある。鏡の横でゆらゆらと揺れるランプは、こんなふうに言っているようでもあった。<よくもまあ、アメリカ大陸に行こうなんて気を起こしたものだ!> ソファの上では、ガラスの眼球を思わせる丸い小窓がちらちらと輝いていた。私はその窓をじっと見つめた。まるで、それが本物の人間の瞳で、私をからかってウィンクしているように思えてきた。まあ、からかいたくなるのも無理はない。なにを好きこのんで、この息詰まるような穴ぐらで、24日も過ごそうというのか。私は予感した。果てしのない倦怠、赤道近くの酷暑、悪天候のために壁に頭を打ちつける日々、6000マイルの旅のあいだにこの部屋で反芻することになるだろう、不安と悲しみに彩られた無数の思考……けれど、いまさら後悔したところで仕方なかった。旅行かばんに視線をそそぐ。私に向かって、たくさんのことを語りかけているような気がしてくる。愛犬にしてやるように、かばんを優しくなでてやった。私の犬たちはいまごろ、人声の絶えた家で、主人の帰りを待っていることだろう。私は神に祈りを捧げた。出発の前日に勧誘にきた、保険会社の営業員を追い返したことを、後悔せずにすみますように。船が出る直前までそばにいてくれた信義に篤い友人たちに、心のなかで祝福を捧げたあと、祖国の親愛なる海に揺すられながら、私は眠りに身をまかせた。(続く)
『洋上にて』連載一覧
第0回(訳者緒言) 第1回 第2回 第3回 第4回
栗原俊秀による翻訳書
アイキャッチ画像:ラファエロ・ガンボージ《移民たち》1894年
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