目を覚ますとすでに夜は明け、汽船はリオン湾〔フランス南岸の湾〕の波に揺られていた。ただちに正面の船室から、耳障りなテノールのトリル〔主音符と2度上の音とを急速に連続して往復する奏法〕が聞こえてきた。隣の船室では、女性がきつい声でこんなふうに言っている。「ブラシ? 私が知るわけないでしょうに! 自分で探しなさいよ!」一時的な苛立ちというよりも、辛辣で冷酷な性格を感じさせる声であり、失せ物の持ち主に深い同情を抱かずにはいられなかった。もうひとつ先の船室では、別の女性が子守歌を歌っている。なんとも奇妙な旋律で、私たちの文明に属す音色には思えなかった。昨晩すれ違った黒人女かもしれない。その歌は、廊下で口論しているふたりのメイドの、人をなじるような低い声にかき消された。どうやらタオルのことで言い争っているらしい。私は聞き耳を立てた。二、三の言葉を聞いただけで、ふたりの出身地はすぐに知れた。ジェノヴァのメイドと渡り合える女がこの世にいるとしたら、それはヴェネツィアのメイドだけである。ボーイがコーヒーを持って私の船室に入ってきた。はじめての朝というのは何につけても、細かいところまで観察したくなるものだ。このボーイは、顔立ちは整っているとはいえ、いかにも嫌な感じのする若者だった。整髪料を塗りたくった髪を垂らし、あふれんばかりの自尊心をひけらかしながら、うぬぼれた俳優のようにみずからの美しさを愛でている。名前を訊くと、ボーイはこう答えた。「アントニオでございます」。慎ましく、それでいてきざったらしい口調だった。まるで、この「アントニオ」というのは、とある情事のためにボーイに扮する、若き公爵の偽名なのだとでも言いたげだった。ボーイが出ていくと、私も船室の外に出て、壁に寄りかかってあたりを眺めた。中央の廊下を振り返ると、昨晩見かけた巨大な司祭の背中が見えた。自分の船室に入っていくところだ。その少し先では、ドアの小窓にかかる緑のカーテンの裾から、素晴らしく美しい足に黒い絹の靴下を引きあげる白い手が覗けていた。乗客のほとんどはまだ船室のなかにいる。それぞれの室内には、洗面器の水が揺れる音、服にブラシをかける音、かばんをがさごそとひっかきまわす音が響いていることだろう。船尾にあがってみたが、私のほかには三人しかいなかった。海はうねっているが真っ青に澄んでおり、天気は快晴だった。もう陸地は見えなかった。
だが、ほんとうの見ものは三等客室で展開されていた。そこではほとんどの移民が船酔いに取りつかれ、秩序もなにもなしに床に身を投げ、腹ばいになって寝そべっていた。顔は汚れ髪はぼさぼさの、病人か死人と見まがうような人びとが、乱雑に敷かれた毛布やぼろ切れのうえに転がっている。いくつかの家族が集まって、哀れを誘う集団を形づくり、打ち捨てられ、途方に暮れた、宿なしを思わせる雰囲気を漂わせていた。夫は腰を下ろしてうとうととし、その背中に妻が寄りかかり、子どもたちは両親のひざに頭を乗せて、床板のうえで眠りこけている。どこにも人の顔が見えないぼろ切れの山から、小さな子どもの腕だったり、女性の三つ編みだったりが、ひょっこりと突き出ている。髪の乱れた青白い顔の女たちが、足をふらつかせ、そこここにしがみつきながら、船室の扉の方へ歩いていく。善良な船長であれば誰もが望むことであろうが、貧しい移民がジェノヴァでたらふく詰めこんできた常食の傷んだ果物や、多少は金の持ち合わせのある者たちが腹がはちきれそうになるまで居酒屋で飲み食いしてきたものは、バルトリ神父が「胃の苦悶と憤慨」なる高貴な名を授けた症状により、残らず一掃されてしまったに違いなかった。船酔いに苦しんでいない者でも、やはり打ちのめされた表情を浮かべていた。その外貌は移民というより、むしろ流刑囚に近かった。貨物船のなかで過ごす、ただじっとしているしかない不自由な時間が、旅立ちのときには胸に抱いていたはずの勇気や希望を、ほとんどの移民から奪ってしまったかのようだった。船出の興奮のあとに続く、魂の疲労困憊のなかで、胸中にくすぶっていたあらゆる疑念、苦渋、倦怠を、くよくよと思い返している。家で過ごした最後の日々、雌牛やら、猫の額ほどの土地やらを、地主や教区司祭との激しい口論のすえに売却し、後ろ髪を引かれる思いで故郷をあとにしてきたのだろう。いちばん悲惨なのは、船尾の船楼近くの昇降口から下って入る大部屋だった。なかを覗きこむと、薄暗がりのなか、人の体がいくつも折り重なっているのが見える。まるで、貨物船で祖国へと運ばれる、中国人移民の亡骸のようだ。半地下の病院のごとき空間から響いてくるのは、嘆き、喘ぎ、咳の協奏曲だ。こんなものを一日中聞かされていたら、マルセイユで下船しようという気になったとしてもむりはない。唯一目を楽しませてくれるものといえば、スープがなみなみと注がれたアルミの容器を抱えて、キッチンから甲板へ飛びだしてくる恐れ知らずどもだ。落ちつける場所でゆっくり味わおうと、男たちは足早に去っていく。何人かは、驚異的なバランス感覚を発揮して、見事に目的を達成する。だが、たいていはへまをやらかし、転んで皿のなかに鼻を突っこんでしまう。汁や具がそこらじゅうにまき散らされ、この粗忽者はまわりの移民に、ぼろくそに罵倒される。(続く)
『洋上にて』連載一覧
第0回(訳者緒言) 第1回 第2回 第3回 第4回
栗原俊秀による翻訳書
アイキャッチ画像:ラファエロ・ガンボージ《移民たち》1894年
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Raffaello_Gambogi_-_The_Immigrants_(1894).jpg