『空想科学読本』という本がある。その内容は、特撮番組を中心とする様々な空想物語を科学的な観点から検証するというものである。その結果として、怪獣たちの恐るべきパワーが数値で明らかにされた上で、実際にあるべき生態や行動が導き出されたり、また場合によってはその実現不可能性があぶり出されたりする[1]例えば怪獣の身長と体重から、ヒトなどとの重量比により、その適正体重を割り出す。それによるとゴジラは「生まれた瞬間に即死」し、ガメラは水に潜れないということが判明する(柳田理科雄『空想科学読本(第二版)』メディアファクトリー、1999年、12~26頁)。。ただしその際に注目すべきは、著者がこうした検証結果から「だからこの怪獣は現実に存在できない可能性が高い」などという(「科学的検証」がつい言ってしまいがちな)主張を行うことはないという点である。その分析は、科学的観点から見た場合にはおかしな身長・体重が怪獣たちに設定されている、ということを示すのみである。『空想科学読本』の分析は、怪獣たちの生活には何らの影響をも与えることなく行われるのである。
さて、こうした仕方での分析は科学のみならず、「哲学」という領域においても可能ではないだろうか。即ち、空想や虚構による創作物に哲学的分析を施し、そこにある哲学的構造を露わにするのである。虚構作品においては、登場人物たちが現実の人間には成し得ないような在り方をしていたり、超能力を持っていたりする。そうしたものは、あるときは現代の技術では実現困難なだけであって本質的には可能なものであるが、またあるときはそもそも矛盾を抱えているために実現不可能なものである。そして重要なことは、後者の場合であっても読者や視聴者は、どうしたわけか、そうした矛盾を含む出来事をやすやすと理解できてしまっている(ような気になっている)ことである。空想科学的哲学では、そうした実現・理解不可能であるかもしれないものに対する人間の在り方を、創作物語に対する分析を通して解明する。
とりあえずの素描をしてみたが、こうしたことを細々と述べ続けるよりも、まずは実際に例を一つ取り上げてみることにしよう。
■「世界」ッ!時よ止まれ!
『ジョジョの奇妙な冒険』から例を挙げよう。この作品にはDIOという敵が登場するのだが、彼は「時を止める」ことのできる超能力者である。即ち、DIOがこの超能力を行使すると、全てのものが動きを止める中、DIO自身だけが通常通り動き回ることができるようになる。このことを看破した正義の味方は次のように分析する。「DIO…おまえは「時を止める」といってもほんの短い時間しか止めていられないようだな ほんの3秒か 4秒だけじゃろう?」[2]荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第27巻』集英社、1992年、169頁。。どこか奇妙な分析だな、と読者が思っていると、後にDIO本人が次のように述べる。「今では5秒は止めていられる…時が止まっているのに5秒と考えるのはおかしいがとにかく5秒ほどだ」[3]上掲書、179頁。。そう、時が止まっているのに3秒や5秒という時間測定ができるのはおかしいのである。5秒というのは時間を計測する単位であり、時間経過がない状態では利用することのできない単位である。そうであれば、秒数が数えられてしまう以上、「時を止めた」後でもなお依然として時間が経過し続けていなければならないという矛盾が生じる。それにもかかわらず、読者はDIOと同じく、とにもかくにも時間が止まっているという状況を容易に理解できてしまっている(つもりになっている)。
そもそもDIOが「時を止める」と言う場合、何をもってして時間が止まっていると言えるのか。まずはこのことから見ていこう。DIOの能力を読者が見える範囲で記述するならば、「DIO以外のものの(自律的な)動きがなくなっているという状況を作り出すこと」ということになる。ただし、もしDIOが物理的次元で運動を止めているのだとしたら、原子なども止まってしまうことになるためにすべてが凍り付いてしまったり、はたまた慣性の法則が働きすさまじいエネルギーが放出されたりしてしまうはずである。そうならないのはひとえにDIOが、ものが凍り付いたりブレーキがかかるという運動すら生じないようにしているからである。そして時間とは運動を成立させる条件の一つである。時間経過がなければ何も凍らないし、ブレーキもかからない。それ故、現に一切の運動が生じていないからには時間が止まっているはずだ、という推測が成立するかもしれない。ところがここで矛盾となるのが、DIOが止まった時の中で運動してしまっているということである。運動が成立するための条件である時間経過を止めてしまったのでは、結局DIOも動けないはずである。だとすると、こうした時間理解ではDIOの行動を説明することはできなくなる。
■止まった時の中はひとり……このDIOだけだ
ここで前提を考え直してみよう。即ち、「時間は運動の条件である」という前提を疑ってみよう。というより、DIOの超能力は「時間経過が成立していない状況で(自分の)運動を成立させる」というものなのだから、その可能性を排除してしまうような前提を置いては議論が不可能になる。では、どのようにしてこの前提に疑問を向け得るのか。たしかに「運動がないときにも時間経過はあるのに対して、時間経過がないときに運動が生じたためしはない」という主張は一見もっともであるように思われる。しかし一体誰が、本当に一切の運動が生じていない状況に出くわしたことがあるのだろうか。いつも何かが微細に運動し続けていたのではないか。むしろ、一切の運動がなくなったことに気付ける人間がはたしているだろうか[4]例えば、あなたがこの文章を読み始めた時にDIOが時を止めていたとしても、多分あなたはそのことに気付けない。DIOが毎分、時を止めていたとしても、誰もそれに気づかない。。そして何より、もし時が止まっている間に運動が生じた場合、人間は「な…何を言っているのかわからねーと思うが おれも 何をされたのかわからなかった… 頭がどうにかなりそうだった…」[5]荒木飛呂彦、上掲書、49頁。と説明せざるを得ないだけなのではないか。以上のことを鑑みると、必ずしも時間が運動を可能にするということが実証されているわけではないと言い得るだろう。
そうした上で更に、この点に関してアリストテレスの時間考察が参考になる。それによると、「時間は運動ではないが、運動なしに存在するものでもない」とされる[6]アリストテレス著、内山勝利、神崎繁也訳『自然学 アリストテレス全集第4巻』岩波書店、2017年、169頁(219a1)。「時間とはまさにこれ、すなわち、前と後に関しての運動の数である」(170頁(219b1))。。つまり、運動そのものは時間ではないが、しかし時間を計測するための基準にはなり得ると言うのである。そのため人は、一切の運動が認められないときに時間が経ったことに気付かない。そしてこの気付かれないことがここでは時間が「存在しない」こととして考えられている。つまり、人間の認識に関わる限りにおいて、運動による変化の有無が時間経過の有無を意味している、即ち、運動こそが逆に時間の条件となっているのである。そしてこの意味において、DIOが時を止めている間の運動は他人には認識できないので、その限りで時間経過がなくなっていると言うことができるだろう。
時を止められる側からの説明としてはこれで問題ないだろう。しかし問題は、DIOには止まっている時の中ですべてのものが「静止している」ものとして認識されているということである。「静止」も消極的とはいえ運動の一種であるので、DIOには運動と時間がなくなっているという状態は成立していないと言える。また、「静止し続ける」というのは時間の経過を含意する表現であるからこそ、DIOは「5秒間ほど」ものや意識を静止・停止させ続けることができると言い得る。以上の点から、DIOが「止まった時」の中で運動を認知できてしまうが故に、時間停止という出来事に奇妙さが生じると考えられる。
こうした問題に対しては、次の点に突破口があるかもしれない。即ち、ここでの「時間」とはDIOとその他のすべてが共有する普遍的かつ唯一的・絶対的な出来事として想定されているが、その前提をここで切り崩すのである。つまり時間とは個々のものおよび意識に属するものであって、そのそれぞれが独自に進行している、という時間解釈を行うのである。時間の中で意識が働いているのではなく、意識が時間を産み出していると考えるのである。楽しい時間は早く過ぎ、キレているボクサーの一瞬は長い。DIOはそれらの時間を止めるのである。時間を唯一のものとすればDIOが「止めた」と言い張る時間と「5秒くらい」という時間が矛盾するために奇妙さが生まれるが、それぞれが別の時間であるとするならば、そこには何の問題も生じない。DIO自身については運動も時間も止まっていない。しかしそれ以外の個々物が持つ「それぞれの時間」は止まっているということになる。以上のことから、時間を個々物それぞれに属している現象と考えるか否かによって、DIOが時を止めていると言えるか否かが変わってくるということになる。
■時は『2つ』あったッ!
いや、違う。この時間理解では解釈上の不整合が発生する。というのもDIOの超能力には「射程距離」があり、10mほどの範囲にのみ効果を発揮する。しかし「時を止める」ことに関しては10m以内にあるものの時間を止めるのではない。時を止めるときには世界中の時間が止まる。しかも、射程外にいる人々が持つ時間経過をそれぞれ一人ずつ止めていくわけでもあるまい。そのためDIOが干渉する時間とは唯一的な時間、即ち、ここにおいても10m以上離れた所においても共通する普遍的な時間経過でなければならない。上述した各人の個別時間が結果的に停止するにしても、それは全体的に一挙に作用している唯一的かつ普遍的な時間の停止したことによる影響でなければならないだろう。
とはいえ、時間停止には何らかの形で複数の時間経過が必要になる。というのも、唯一の時間しかなければ、「時を止めてから5秒経過」と言うことができないからである(その5秒を数えるための時間が止まっているのだから)。そのため、複数の時間経過というものに関する考え方を変更しなければならない。各々の意識とは別の仕方と次元で複数の時間経過を考える必要がある。
その場合考えられるのは、DIOが新たに時間経過を作り出すという方向である。現在進行している唯一の時間経過から抜け出し、新たな固有の時間を5秒間ほど作り出す。DIOだけはその固有時間経過の中で運動し、5秒を数えることができる。すでにある時間経過とは全く関係のない時間経過を生み出すのである。ただしその際に作り出されるのは時間経過だけであり、空間が新たに作り出されるのではない。それでは平行世界になってしまう。空間はそのままに、時間経過だけが新たなものにすり替わるのである。
ではその間、一方の普遍的時間経過はどのように把握されているのだろうか。もし普遍的時間経過の中で「静止という運動」を認識してしまうならば、結局「時は止まっていないのではないか」という疑問が生じてしまうことになるだろう。しかし、時間を作り出す場合はそうはならないと思われる。というのもDIOには、止まっている普遍的時間経過における運動がそもそもどのようにあるのかが認識され得ないからである。
このように言える理由は、人間は時間経過なしで運動を認識したためしはないという程には、運動を認識するために時間経過が必要になるからである。時間経過がなくても運動は成立するが、その運動を認識することはできないのである(それによって生じる反応は上で引用した通りである)。普遍的時間経過は止まっているので、そこにおいて運動が認識されることはない。従って、固有時間経過から見た場合、普遍的時間における運動が生じているわけでも生じていないわけでもないと言えるのである。
この点で、DIOはその他の人々と同様、普遍的時間経過における運動を認識できていない。それでもDIOが止まった時の中ですべてのものを静止しているものとして認識できているのは、それが固有時間経過における運動だからである。DIOは普遍的時間経過においては運動を認識できないが、固有時間経過においてはそうではない。固有時間においては静止しているという運動が認識される。DIOには「止まった時」において運動がどのようにあるのかが分からない。DIOには発射された弾丸が動いているのか止まっているのか分からない。しかし弾丸をつまみ、「同じ位置に居続けさせる」という運動を加えることによって、固有時間経過の中で「止まっている」という認識を得ることができるのである。
「時間は生み出せる」という一見して異様に思われるこの時間理解も、DIOの行動を造作もなく理解できているほどには身近な考え方と言い得るのかもしれない。そういえば、これは漫画の時間経過と読者の時間経過という関係に似ている気がする。
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注
↑1 | 例えば怪獣の身長と体重から、ヒトなどとの重量比により、その適正体重を割り出す。それによるとゴジラは「生まれた瞬間に即死」し、ガメラは水に潜れないということが判明する(柳田理科雄『空想科学読本(第二版)』メディアファクトリー、1999年、12~26頁)。 |
↑2 | 荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第27巻』集英社、1992年、169頁。 |
↑3 | 上掲書、179頁。 |
↑4 | 例えば、あなたがこの文章を読み始めた時にDIOが時を止めていたとしても、多分あなたはそのことに気付けない。DIOが毎分、時を止めていたとしても、誰もそれに気づかない。 |
↑5 | 荒木飛呂彦、上掲書、49頁。 |
↑6 | アリストテレス著、内山勝利、神崎繁也訳『自然学 アリストテレス全集第4巻』岩波書店、2017年、169頁(219a1)。「時間とはまさにこれ、すなわち、前と後に関しての運動の数である」(170頁(219b1))。 |
執筆者:S.T.
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