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前回の考察から、わたしたちがある出来事に運命を感じたり、運命の存在を信じたりすることの条件として、まず、「たまたまであること」が必要であることがあきらかになった。テーマパークでたまたま片思いの相手に出会った。たまたま立ち寄ったお店で自分にピッタリの服をみつけた。等々。しかし、それだけでは不十分であることもわかった。たまたま近所のおじさんに出会ったところで、そのことに運命を感じはしない。デザインについては自分にピッタリの服をみつけたものの、サイズがピッタリでなければ、運命的な感じは弱まってしまうだろう。どうやら、その出来事が自分にとって「ポジティブな価値をもつこと」もまた、運命的経験の成立条件であるようだ。
ところが、体験談をよく読んでみると、「たまたまであること」や「ポジティブな価値をもつこと」に反するようにおもわれる事例がいくつかあった。今回はそうした事例について分析してみるが、面白いことに、そうすることによってむしろ、運命的経験の本質が際立ってくる。
まずは、「たまたまであること」に反するようにおもわれる事例について。以下のようなものがあった。
・この両親のもとに生まれてきたことに運命を感じる。
・友人と幼稚園から、小中高、大学にいたるまで一緒にいることに運命を感じる。
たしかにそうしたことに運命を感じるのはありそうなことである。しかしながら、テーマパークの事例や、その他の多くの事例においては、必ずと言っていいほど、「たまたま」やそれに近い表現が用いられていたのに対して、これらの体験談においてはそうではなかった。はたして「たまたまであること」は必須の条件ではないのだろうか?
「この両親のもとに生まれてきたことに運命を感じる」ということについては、冷静なリアリストであれば、こんなふうに、ちょっと意地悪に、そのひとをあしらうかもしれない。「見方を変えてみれば、その両親からでなければあなたは生まれなかったのだから、その両親のもとにあなたが生まれたことは当たり前のことであって、たまたまではないし、運命でもないでしょ」と。なるほど、「見方」を変えることによって、わたしたちはある出来事に運命を感じたり、感じなかったりする。しかし、まさにどのように「見方」を変えることによって、わたしたちは運命を感じ、あるいは感じないのかを分析することによって、運命的経験の成立条件があきらかになるのである。
「この両親のもとに生まれてきたことに運命を感じる」については、たしかにテーマパークの事例とは大きくちがう点がある。それは、テーマパークの事例においては、バラバラにいた二人の人物がたまたま出会うのに対して、今回の事例においては、そうではなく、両親が子供を生みだした時点で、両者はすでに一緒にいる、というちがいである。そうであるからこそ、あのリアリストからすると、両者の親子関係は当たり前のものであって、たまたまではないし、運命でもない、というわけである。
こうした見方をとるのではなく、「世の中にはたくさんの人間が存在し、もしかしたらこの両親ではなく、近所の夫婦や、友人の両親のもとに生まれる可能性もあったかもしれない」という見方をとるとすれば、どうだろうか。おそらく、こうした見方をとることによって、光景は一変することだろう。つまり、「さまざまな可能性があるにもかかわらず、たまたまこの両親のもとに生まれてきた」ということを意識することによって、その両親のもとに生まれてきたことに運命を感じてしまう、というわけである。「この両親のもとに生まれてきたこと」という表現のうちにも、そのこと、つまり、「べつの両親のもとに生まれる可能性もあったのではないか」という意識があらわれているようにもおもわれる。
この場合、ほんとうにそうした「さまざまな可能性」というものがあるのかどうか、そのような見方は「不死の魂が存在し、それが特定の肉体と結びつくことによって人間が生まれる」という思想を前提しているのではないか、ということが気になってしまうかもしれない。しかしながら、これは現象学であるということを忘れないでほしい。つまり、ここでは、「わたしたちが運命の存在を確信する場合、その確信が生じる条件はなにか」ということが問題になっているだけであって、「はたしてほんとうに運命やさまざまな可能性というものが存在するのかどうか」ということは問題になっていない。そして、わたしたちが運命を感じたり、運命の存在を信じたりする場合、少なくとも意識のなかでは「さまざまな可能性がある」という見方をとっていると言えるのである。
「友人と幼稚園から、小中高、大学にいたるまで一緒にいることに運命を感じる」も同様である。たとえば、こんな世界があると仮定しみよう。その世界はひとつの町ほどの大きさしかなく、人口も非常に少ない。そのため、幼稚園から大学まで、ひとつあれば十分であり、その世界の住人たちは、みんな同じ幼稚園、小中高、大学に通う。かれらにとっては、同じ幼稚園、小中高、大学に通うことは当たり前のことだ。だから、この場合、友人と幼稚園から大学まで一緒にいることに運命を感じる余地はなくなってしまうだろう。べつの幼稚園、べつの小中高、べつの大学に通う可能性があるからこそ、ずっと一緒にいることに運命を感じるわけである。
この小さな世界においては、たとえば「ある友人と同じ時代に生まれて、一緒に学校に通ったこと」や「ある友人とずっと仲良しであること」についてであれば、運命を感じることはあるだろう。「その友人とはべつの時代に生まれる可能性があるにもかかわらず」ということ、「その友人とは疎遠になって、べつの友人と仲良しになる可能性があるにもかかわらず」ということが意識されることによって、それが運命的経験に変わるわけである。
以上のように、一見すると「たまたまであること」に反していたり、その条件が欠けていたりするようにおもわれる事例においても、じつは「たまたまであること」が、はっきりとではなくとも、意識されていると言えるだろう。そしてまた、これらの事例においても、その両親や友人と仲良しである、つまり、その出来事が「ポジティブな価値をもつこと」という条件が同様に必要であるようにおもわれる。
ところが、前述のとおり、「ポジティブな価値をもつこと」に反するようにおもわれる事例もあった。それは、こんな事例である。
・家族内の女性全員(祖母、母、姉、自分、兄の結婚相手)が(月はちがうが)15日生まれであることに運命を感じる。
・自分ではどうしようもない嫌なことがあったとき、運命を感じる。
15日生まれの事例は、もし全員が仲良しであればポジティブな価値をもつかもしれない。しかし、とくに仲良しというわけでもないというニュートラルな場合や、また、非常に仲が悪いというネガティブな場合であっても、運命を感じてしまうということはありえるだろう。嫌なことの事例については、あきらかにネガティブであるが、たしかに、そういうことに運命を感じるということもありえなくはない。これらの事例については、どのように考えればよいのだろうか。
さきに、ネガティブな事例について考えていこう。「自分ではどうしようもない嫌なことがあったこと」のほかには、「学校でグループ分けをしたら、自分の苦手なひとばかりと一緒になったこと」という事例があった。それから、おそらく、テーマパークでの遭遇についても、たとえば「テーマパークでたまたま、世界で一番嫌いなひとに出会ってしまったこと」に運命を感じるということもありえなくはないだろう。こうしたネガティブな事例の場合、「宿命」という表現のほうがしっくりくるかもしれないが。
これらのネガティブな事例については、体験者の学生たち自身の言葉に分析のヒントがあった。こうである。
・自分ではどうしようもない嫌なことがあったとき、こういう運命だったとおもうと諦めがつく。
・たんなる偶然だとおもうと、「回避できたのでないか」とおもってしまうが、運命だとおもうと、「そういう運命だったのならしょうがない」とおもうことができる。
自分にとってネガティブな価値をもつ出来事が、たんなる偶然によって起こったと意識することはつらいことである。「こんなはずではなかったのに…」と。しかしそこで、その出来事は偶然ではなく、運命にしたがって起こったと解釈することによって、そのつらさを軽減することができる。「こうなる運命だったんだ!」と。たしかに、さまざまな可能性、もっとよい可能性があったのにもかかわらず、こうなってしまったとおもうことは、つらい。自分を責めたり、他人のせいにしたりしてしまう。しかし、それがたんなる偶然ではなく、運命にしたがって起こったとすれば、そう解釈すれば、その必要はなくなる。わたしたちは、そう解釈することによって、その出来事のネガティブな価値をいわば中和し、受け入れることができる、というわけである。そのため、この場合、出来事そのものはネガティブな価値をもつかもしれないが、それをなんとかしてポジティブに解釈しようとしている、と言えるのではないだろうか。
しかしながら、これは第一の条件「たまたまであること」に矛盾するようにおもわれる。というのも、ネガティブな事例の分析のなかで、運命は、たんなる偶然とはちがい、むしろ、回避できないものという意味での必然に近いということがあきらかになったからである。わたしたちの分析は後戻りしてしまったのだろうか。
運命には、偶然性と必然性という正反対の契機がともに関与しているということはよく指摘されてきた。これらの相矛盾する契機がどのように関係しているのか――そして、たんに偶然性と必然性という言葉だけで説明することがいかに不十分であるか――が、ポジティブでもネガティブでもない事例を分析することによって、あきらかになる。これについては次回、分析をつづけていこう。(つづく)
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執筆者:峯尾幸之介(大学非常勤講師)
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導終了退学。哲学・美学研究。専門は現象学・現象学的美学。
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